レディバードブックス100点セット
 

 

エリザベス一世

 400年以上も前の、1533年の夏も終ろうとしているある晴れた日曜日に、ロンドンに近いテームズ川のほとりのグリニッチの宮殿で、女の赤ちゃんが生れました。
両親はイギリス国王と王妃である、ヘンリー八世とロンドン市の総督の娘だったアン・ブーリン女王でした。
その子は、エリザベスと名づけられました。両親は生れたのが男の子でなかったので失望してしまい、その子が後に、イギリスの王座に着いた女王のうちでも、もっとも偉大な女王の1人として、イギリスを治めようとは思ってもみませんでした。
へンリー八世は、以前に結婚していましたので、エリザベスにはメアリーという姉がおりました。メアリーは、エリザベスより16歳年上で、エリザベスとは性格が非常にちがっていました。2人が成長したとき、メアリーはエリザベスにいろいろめんどうをかけ、心痛のたねになりました。

 エリザベスが20歳のとき、メアリーはイギリスの女王になりました、メアリーは、はじめのうちは、エリザベスに親切でした。
当時のイギリス人は、カソリックとプロテスタントに分れていました。
2つとも同じキリスト教でしたが、めいめいが違った種類の教会へ礼拝に行っていました。
メアリー女王はカソリック教徒でした。おまけにスペインのフィリップ二世国王と結婚しました。イギリス人は、スペイン人がきらいでしたし、プロテスタント教徒はカソリック教徒のメアリーをにくんでいました。したがって、多くの人たちが、メアリーのかわりにエリザベスを王座に着けようと計直していました。
メアリーは、この計画にエリザベスが加わっていると思っていました、もしかしたら、ほんとうにエリザベスは加わっていたかもしれません。そこで、メアリーは妹を逮捕させてロンドン塔に閉じこめてしまったのです。
これは、20歳になったばかりの若い王女には、とても恐ろしい体験でした。

 メアリーは、エリザベスの王座をうばい取る計略の罪を証明しようと必死でした、しかし、エリザベスはとても賢明でしたから、自分にかかっている疑いを申し開きすることができました。その申し開きが、あまりにもりっぱだったので、多くの人たちはこれ以上エリザベスを塔に閉じこめておくべきでないと言いました、それで、メアリーはエリザベスを自由にせざるを得ませんでした。
しかし、エリザベスは、好きなところどこへでも自由に行けたわけではありません。メアリーは、エリザベスを英国の女王にしようとする陰謀を恐れて、ハットフィールドと呼ばれる宮殿にエリザベスを送ってしまいました。
エリザベスは、4年近くもここで静かに暮しました。彼女は、ラテン語やギリシア語を勉強して、イギリスの最高の学者の1人となりました。エリザベスには、とても賢明な助言者がいました。この助言者は、のちにイギリスの歴史上、大きな役割を演じたウィリアム・セシル卿でした。

 姉のメアリーが統治していた間、エリザベスの生活は決して楽なものではありませんでした。それだけではなく、身の危険もあったのです。メアリーは変った女性で、妹を非常にかわいがるかと思えば、ときには身におぼえのないことでひどくせめたりするのでした。
メアリーが一番腹をたてたことは、エリザベスがプロテスタント教徒だったことでした。メアリーは、イギリスがカソリック教の国として長く続くことを望んでいましたので、エリザベスが王座に着けばプロテスタント教の国になると恐れていたのです。
メアリーは、たびたび妹を呼んで質問しました。エリザベスは、もしメアリーに逆らえば、自分はまたロンドン塔に閉じこめられるか、打ち首にされてしまうにちがいないと不安になりました。あるときなどは、エリザベスはメアリーの前にひざまずいて、もし彼女が真のカソリック教徒でなかったら、地球が割れて、生きたままのみこまれてもいいと祈ったほどでした。

 メアリー女王が亡くなったことを、ハットフィールドで聞いたのは、エリザベスが25歳のときでした。
ただちに貴族や各大臣たちはみな、エリザベスのところへ忠誠を誓いにやってきま演壇の上で、エリザベスはイギリスのエリザベス女王として宣言されたのでした。
新女王の最初の仕事は、助言者のウィリアム・セシルを国務大臣に任命することでした。その後40年間にわたって、ウィリアム・セシルはエリザベスのもっとも信頼する友人であり、もっとも賢明な相談相手となったのでした。
エリザベスのロンドンへの帰還は、勝利の行進でした。イギリス国民は、メアリーの治世下の数多くの処刑にうんざりしていたのです、司教や市長、ロンドン警視総督たちは正装してエリザベスを出迎えました。
若い女王がウェストミンスターで戴冠されたとき、イギリス国民は大きな希望をもちました。イギリス国民の希望は完全に満たされたのです。エリザベスが亡くなるまで、イギリスはかってない、強大で豊かな国になりました。

 エリザベスは、今やイギリスの女王でした。当時、イングランドとスコットランドは、それぞれに独立した2つの王国で、スコットランドにもまた若い女王がいました。その女王はスコットランド女王メアリーと呼ばれ、エリザベスのいとこでした。
多くの人びとは、このスコットランド女王メアリーが、エリザベスのかわりにイギリス女王になるべきだと思っていました。しかし、メアリーはカソリック教徒でした、イギリス国民のほとんどは、プロテスタントの女王を希望していたのです。
メアリー自身も、イギリスの王位につくことを要求していました、もっとも、メアリーは若いフランスの国王と結婚していましたし、正当なスコットランドの女王でもありましたが。
エリザベスは、もちろん、イギリスの王座をメアリーに渡したりはしないと決心していました。その後、フランス国王は亡くなり、メアリーは霧のたちこめる冷たい雨の日に、スコットランドへもどってきました。
エリザベスの宿敵が、今、ツイード川の北方の彼女の近くにやってきたのです。

 メアリーはイギリスの王座を要求はしましたけれど、スコットランドを統治するのにあまりに忙しかったために、王座を獲得するための手段を講じることはできませんでした。
フランスから帰ってきたときのメアリーは、まだ19歳でした、もの静かな平和主義者とはほど遠いスコットランド人を統治するのはやさしいことではありませんでした。勢力のあるスコットランドの貴族たちは、いつもお互いに戦いあって、若い女王に従おうとはしませんでした。
メアリーは、スコットランド人から反感をもたれることをたくさんしました。メアリーは、あまり評判のよくないダーレイン卿と結婚したのです。ダーレイン卿が爆発で殺害されると、メアリーは、ダーレイン卿を殺したと疑いをかけられているポウスウェル卿と結婚しました。
スコットランド人が武器をとってメアリーに背きましたので、メアリーとボウスウェルは同志を集めて抗戦しました。両軍はラングサイドで戦い、メアリーの友軍は敗れ、追い散らされてしまいました。メアリーは、ソルウェイ湾を渡って、イングランドへ逃れました。

 メアリーは、今ではエリザベス女王の慈悲にすがる身となりました。かつてメアリーは、エリザベスから王位を奪おうとしたことがあったので、エリザベスがいとこではあっても、エリザベスの温情はほとんど期待できませんでした。
スコットランド女王は、カーライスル城にとどまってロンドンのエリザベス女王に使者を送りました。メアリーは、エリザベスが親切に迎えてくれて、その上、もしかしたらスコットランドの王座を取り返すために、援助してくれるかもしれないとさえ期待していました。
しかし、エリザベスは、以前メアリーに陰謀をくわだてられたことを忘れてはいませんでした。メアリーを女王としてロンドンに呼びよせ迎え入れるかわりに、エリザベスはメアリーを逮捕して、イギリス北部の城に閉じこめてしまったのです。
ノーサンバーランドとウェストモーランド地方の貴族たちが数名、兵をあげ、メアリーを自由にしようとしました。彼らはメアリーをイギリスの女王にするつもりでしたが、貴族たちは戦いに被れ、国から追放されてしまい、メアリーは以前よりも厳重に監視されたのでした。そして、メアリーは20年近くも、イギリスでとらわれの身になっていたのです。

 エリザベス女王時代に建てられた古い宿屋のいくつかは、今日までもまだ残っています。エリザベスは、旅をするのがとても好きでしたので、いつも国のあちこちを旅行してまわっては、このような多くの宿屋で食事をしたり休まれたにちがいありません。
ある市のたつ町の宿屋に到着したときの、エリザベスの光景を想像してみましょう。女王の警護や従者にあたっている軍人や貴族たちは、にしきや絹で作った、きれいな色の制服や衣装を着ていたことでしょうが、そのなかの誰よりも、女王は荘厳な服装をしていたにちがいありません。エリザベスは、華麗な服装と豪華な宝石類を好んでいました。
宿屋の主人は看板の下でおじぎをしました。一般の人びとは、美しく優美で、にこやかにほほえんでいる若いイギリス女王を一目見ようと、前に乗りだしたに違いありません。

 エリザベスが統治していたころは、冒険に満ちた航海の時代でした。イギリスの船員たちは、小さな帆船で、すばらしい航海をし、たくさんの新天地を発見しました.
イギリスの海洋より未知の海へ出航した多くの船員のなかで、もっとも偉大な人物はフランシス・ドレイク卿でした。
スペイン人は、南アメリカの豊かな大陸を発見して、船で黄金をスペインに持ち帰っていました。スペイン人は、この黄金を誰にも渡すまいと、スパニッシュ・メインと名づけた南大西洋地域に他国の船が乗り入れるのを阻止しようとしました。
しかし、ドレイクはスペイン人を恐れていませんでしたので、自分の行きたいところはどこへでも航海しました。イギリスはスペインと戦争していませんでしたが、ドレイクは、スペインの船をみつけたときはいつでも沈没させたり、スペイン人の居住地を攻撃し、焼きはらったりしました。

 フランシス・ドレイク卿は、イギリスではじめて世界一周航海をした人です。
1577年の冬のある日、ドレイクはプリマスから航海に出たのでした。船の名はペリカン号といいましたが、3年後に、イギリスへ帰航するときには 「ゴールデン・ハインド号」 と名前が変られていました。その船の名前は、イギリス船が航海するかぎり、決して忘れられない名前です。
ドレイクは、ポルトガル船をとらえたりしながら大西洋を横断しました。南アメリカの沿岸に到着すると、いくつかのスペイン居住地を攻撃し、金銀をうばい取ったりもしました。
それからドレイクは、スペイン人の船や町を攻撃し、略奪しながら南へ向かって航海を続け、太平洋へ入りました。
そこでドレイクは、どのようにしてイギリスへ帰るか決めなければなりませんでした。アメリカ北部をまわって航海しようとしましたが、氷にはばまれてしまったのです。このために、西方に向かい、喜望峰をまわって帰路につきました。
この大航海の報償として、ドレイクは、女王から船上でナイト爵の称号を授けられたのでした。

 ドレイクは、エリザベス一世時代のもっとも偉大な船乗りでした。
その名がたたえられているもう1人の船乗りに、ウォルター・ローリー卿がいます。ローリーは、ドレイクと同じように、みつけしだいスペイン人と進んで戦う意志はありましたが、スペイン居住地を打ちこわしたりしないで、イギリスの居住地を作った方が良いと思っていました。
ローリーは、金持になることよりも、イギリスの将来の発展を考えていたのです。そこで、ローリーは、そのころは新世界と呼ばれていたアメリカへ航海したとき、アメリカにとどまって家や町を作る人たちをいっしょに連れていったのでした。
これは簡単なことではありませんでした。一行は、たびたびインディアンと戦わねばなりませんでしたし、家を焼かれたり、多くの人たちが殺されました。しかし、ローリーたちはくじけませんでした、アメリカのバージニア州は、ローリーたちが建設した植民地の名前を今でも名乗っているのです。

 イギリスの船乗りたちが、海上でも陸上でもスペイン人を攻撃するのはもっともなことでした、というのは、スペインのフィリップ王が、つねにイギリスに対して陰謀をめぐらしていたからです。
そのうちに、新しい陰謀が発見されました。バビントンというイギリス人が、エリザベスを殺害して、メアリーをイギリスの女王に着かせようと計画したのです。この策略を実行するために、バビントンはフィリップ王と示し合せて、エリザベス女王が死んだら、すぐスペイン軍隊を送ってイギリスを占領しようとしていたのでした。
これらのことは、すべて秘密のうちに準備されました。手紙がワインのたるの中に入れられてメアリーに送られ、メアリーもこの計画に同意したのでした。
エリザベスには、たいそう賢明なウルシンハムという大臣がおり、この大臣がこの陰謀を知っていました。そこでワルシンハムは、その計略が実行される直前に、バビントンとその友人たちを逮捕して死刑にしてしまいました。
スコットランドのメアリー女王もまた、このエリザベス女王殺害の計略で同罪となりました。そして、メアリー女王もその理由により、死刑に処せられたのです。

 この計略の失敗で、フィリップ王は、イギリスに対してますます怒りをつのらせました。フィリップ国王は、イギリスの島々を征服する時機が来たと判断して、船を造りはじめ、大軍を準備しました。
イギリス船員たちは、フィリップ王のやっていることを知っていました。スペインの港には、イギリスを攻撃する船がぞくぞくと準備されていたのです。フランシス・ドレイク卿は、先制攻撃をかけることにしました。
ドレイク卿は、スペインのカジス港を選び、イギリス船団を引きつれて港の中へ注意深くしのびこみました。
スペイン船員たちは、攻撃されるとは思ってもいませんでしたので、暗やみのなかから突然現れたドレイクの船団を見ると、先をきそって船をすて海岸へ逃げてしまいました。
こうしてドレイクは、1万トンにおよぶ船を焼きはらってしまったのです。ドレイクはこのことを 「スペイン国王のひげ焼き」 と呼びました。

 しかし、船の建造はスペインの港で続けられて、やがてイギリス攻撃のための大艦隊ができあがりました。それは無敵艦隊と呼ばれました。
イギリスでは、国を守る用意をしていました。丘の上には南から北へと合図用の大かがり火が用意され、昼夜にわたって見張りが立ち、無敵艦隊が見えたらすぐに丘から丘へ合図が送れるようにしてありました。
兵士たちは、チルブリーに集められ、ここで女王は兵士たちに演説をしましたが、その内容は感銘深いものでした。エリザベス女王は、次のように演説しました。
「私は、体こそか弱い女性ではありますが、心は王の心、イギリス国王の心を持っております。スペインにしろヨーロッパのどの国にしろ、わが国の国境を侵略しようとするのは、おろかにも、わが国をあなどってのことです。私はみずから、あなたがたの将軍となりましょう、私の神、私の国、そして私の国民の敵に対して、ほどなく大勝利を得ることを私は確信しています」

 無敵艦隊はスペインを出航しましたが、プリマス・ホウでクリケットをしていたドレイク船長にみつけられました。ドレイクはスペイン艦隊が海上を航行するのを見てから、グラウンドへもどりました。
「このゲームに勝ってからでも、スペイン人をやっつける時間は十分にある」 と、ドレイクは落ち着いて言いました。
無敵艦隊はゆっくりと海峡を航海しましたが、おだやかな航海は長くは続きませんでした。いくつものイギリスの港から、イギリス艦隊が出航したのです。イギリス船はすべてスペイン船より小さな船でしたが、ドレイクやホーキンス、フロビシャー、そしてエフィンガムのハワード卿のような人が指揮していました。
さらに重要だったことは、イギリス船はスペイン船よりも軽く、小回りがきき、水面に近かったことです。このために、イギリス船は、敵の砲火をくぐりぬけてふなべりに発砲し、被害を受けずに逃げだすことができたのです。
その日イギリス艦隊は、1日じゅうこのような対戦を続けて、ついにはスペイン艦隊のオケンド提督の旗艦を撃破していました。

 スペインの船員たちはイギリス船に横づけして、船上に乗りこんでとらえようとするのですが、イギリス人の行動は敏速でした。イギリス船は、くり返し何度もスペイン船の横腹に大砲を打ちこみ、無事に立ち去ってしまいました。
そのうちに、ぱったりと風がやんでしまい、両国の艦隊は静止してしまいました。スペイン人は、これで戦いが終ったものと思いました、しかしスペイン人は、フランシス・ドレイクを知らなかったのです。
ドレイクは、他の船のちょっと後方に静止している、1そうの大きなスペイン船を見ると、小船に船員たちを乗りこませて、その船をとらえに向かわせました。スペイン船の大砲は、こぎ向かってくるイギリス船員たちのボートの方向に発砲できませんでした、そこで、イギリス船員たちは、士官や船員たちの全部が乗っている大きなスペイン船に綱を結んで引っぱってきたのです。
戦いはまた始まり、まもなくスペイン人は戦いに負けたことを知りました。都合のいい風が吹きはじめると、残っているスペイン艦隊は、カレー港に向かい航海しはじめました。

 スペイン艦隊は、平穏無事に逃げられたわけではありません。暗くなるとすぐに、ドレイクは、油やタールなど燃えるものは何でも、古い船に積みこむように命じました。そして、ドレイクは、その古船に火をつけると、いかりをおろして群れ集まっているスペイン艦隊に向けて送りだしたのです。
スペイン人は、燃えている船が近づいてくるのを見ると、逃げだそうとあわてました。ある船は暗やみのなかで衝突しました。あるいは座しょうしました。しかし、多くのスペイン船は、どうにか波間へ逃れることができました。
逃げおおせたスペイン艦隊は、北方に航海しましたが、イギリス船は火薬や弾丸がなくなるまで休みなく攻撃しました。
その後、天候が急変して、南西から暴風雨がおそってきたのです。スペイン艦隊は、スコットランドの北側をまわってスペインへ帰る以外ありませんでした。
でも、西からの暴風で、スペイン艦隊の多くの船は、スコットランドとアイルランドの岩の多い海岸に乗りあげてしまいました、そして、有名な無敵艦隊は半分以下になって、壊され、たたきつけられ、みじめな姿でスペインへたどり着いたのでした。

 偉大な無敵艦隊は、打ち破られました、それでも、イギリスの船員たちはスペイン船をみつけしだい、攻撃しました。
リチャード・グレンビル卿は、最後となったスペイン人との大海戦で、今なお記憶されている、エリザベス一世時代の船乗りの1人です。
「リベンジ(復讐)号」 という船に乗っているとき、グレンビルは、イギリス船よりもたくさんの大砲を持った、大きなスペインの軍艦に囲まれてしまいました。スペイン人は火ぶたをきり、その日ずっと、大砲はうなりをあげていました。「リベンジ号」 も大砲を打ち返し、マストが吹き飛ばされ、かじはこわれ、船体に穴があき、くだかれるまで戦ったのでした。
それでも 「リベンジ号」 は、なおも戦いました。乗組員の半数は戦死してしまい、残りの人たちは負傷しました。リチャード・グレンビル卿は、たまに当たって倒れてしまい、死ぬまぎわに、甲板で降参するよりも船を爆破してしまうよう、砲術兵に命令を出しました。
スペイン船は、大砲を撃つのを突然やめてしまいました。スペイン人は勇敢でしたので、同じ勇敢な人に敬意を表したのです。リチャード・グレンビル卿が死ぬと、スペイン人はだまって立ちあがり、半旗にして、勇敢な敵をほめたたえました。

 エリザベス女王の統治時代は、イギリス文化の黄金時代と呼ばれていました。というのは、偉大な船長や探険家と同様に、英語でもっともすばらしい詩や戯曲を書いた人たちが当時存在していたからです。
このなかの1人に 「妖精の女王」 という非常に実しし、長文の詩を書いた、スペンサーという人がいました。
スペンサーは、アイルランドに住んでいるときにこの詩を書いたのですが、そこで、女王のお気に入りの臣下の1人であったウォルター・ローリー卿に、幸運にもめぐりあえたのでした。ローリーは、スペンサーがこの長い詩の最初の部分を読むのを聞くと、スペンサーをイングランドへ連れていって女王に接見させようと決心しました。
エリザベス女王は、詩がたいへん好きで、この 「妖精の女王」 をたいそう喜びました。スペンサーは、定期的に宮殿を訪れるようになり、年金を支給されるようになりました。

 エドモンド・スペンサーよりももっと偉大な人物に、最高の詩人であり劇作家のウィリアム・シェイクスピアがいました。
シェイクスピアは、イギリスでももっとも美しい地方にある、ストラトフォード・アポン・エイボンで生れました、しかし、シェイクスピアは、その地方の金持の領地で鹿を殺したために、やむをえずその地方を離れなければならなかったと言われています
それでシェイクスピアはロンドンへ出て、そのうちに劇場の仕事をみつけました。劇場といっても、現在の劇場とはだいぶ違います。舞台のかわりに壇がある野外劇場だったのです。
劇場は、女王や大貴族に保護されていました、まもなく、シェイクスピアがグローブ劇場のために書いた劇が上演され、エリザベス女王に注目されました。
女王はシェイクスピアの劇が大好きでしたので、よく劇団を宮殿へ呼んで上演させました。現在私たちが見ている多くの劇が、偉大なエリザベス女王の前で最初に上演されたことを思うだけでも、心楽しいことです。

 エリザベス治世の船乗りたちは、新世界だけを航海したのではありません。東洋へ行く新しい航路を探険し、そこで中国やインドを発見し、古代文化や巨大な富をみつけました。船員たちの話を聞いた人びとは、東洋と貿易すれば財産がきずけると考えました。
エリザベスが王座に着いたころのイギリスは、貧乏な国でした。エリザベスは統治している間に、より豊かにすることに力をつくしました、ときにはスペイン船から宝ものを奪い取ったり、外国との貿易を奨励したりしたのです。
ここに、もう1つの好機が待っていました。デリーのムガール王室は世界でもっとも裕福な国でした。そこでエリザベスは、イギリス人であるジョン・ミルデンホール卿を送って、イギリスとインド間の貿易を取り決めさせたのです。
ミルデンホール卿の訪問の結果として、東インド会社が設立されました。この会社は、貿易会社のなかで、世界でも一番大きなもののひとつでした。

 エリザベス女王には、宮廷を構成する貴族や廷臣のなかにたくさんのお気に入りがいました、そのなかで一番お気に入りだったのは、エセックス伯爵のロバート・デバルーでした。
エセックスは、大政治家でも非常に賢明な将軍でもありませんでしたので、アイルランドで失敗すると、女王のきげんを損じてイングランドへ呼びもどされました。このために、エセックスはたいそう怒り、他の大臣たちが自分をおとしいれようと女王に陰口を言ったしたとして、大臣たちに対して、ロンドン市民に暴動を起させようとしたのです。
その計画は失敗に終りました。エセックスは逮捕されて、ロンドン塔に投獄されてから、打ち首の宣告を受けました。
エリザベスからちょう愛をうけていたころのエセックスは、指輪を与えられ、もし危険にあったときはその指輪を女王に送れば、救助してやると約束されていました。逮捕されたエセックス伯爵は、女王に指輪を送りましたが、指輪はエセックス伯爵をにくんでいたノッティンガム伯爵夫人の手に渡ってしまって、女王はその指輪を受け取りませんでした。
エセックスは、塔の中で処刑されてしまいました、ノッティンガム伯爵夫人がエセックス伯爵を裏切ったことを女王が知ったときには、もう手遅れでした。

  エリザベス女王は、45年間イギリスを統治しました。女王になったころのイギリスは、貧乏国でした。しかし、女王が亡くなったときには、イギリスは裕福で、繁栄した、幸福な統一国家になっていました。
エリザベスの統治期間は、のちの大英帝国の始まりとなりました。女王の治世の船乗りたちは、スペインの無敵艦隊と戦って大勝利をおさめ、イギリスをヨーロッパで偉大な国の1つとしたのでした。
これらの多くは、エリザベス女王の性格によるものでした。女王は、絶対に絶望したり屈伏するようなことはありませんでした。
女王の病気が重いという知らせが、次期のイギリス国王に予定されていたスコットランドのジェームズ国王にとどき、ジェームズ国王は女王の病状がどれほど悪いかみてこさせるために、自分の部下の貴族を送りました。女王は立つこともできないほど重病でしたが、立派な服を着て舞踏会に出席し、ジェームズの送った貴族の前で踊りました。
その数日後に、女王は亡くなりました。


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