レディバードブックス100点セット
 

 

クロムウェル

 オリバー・クロムウェルは、イングランド史のなかで、もっとも重要な人物の一人です。彼が生きていた時代には、イングランドの人びとの自由を求める戦いにおいて、彼らを指導する偉人が必要でした、そして、彼が獲得した自由を、今なお私たちは享有しているのです。
クロムウェルは1599年にハンディンドンで生れ、大きな農場で成長しました。彼が祖父のへンリー・クロムウェル卿の家にいたころ、彼の身に起った思いがけないできごとについての話があります。
へンリー卿はペットの猿を飼っていて、その猿は、家じゅうどこに登ってもいいことになっていました、ある日、猿は生後数か月のオリバーをつかまえて、屋根にのぼってしまったのです。
猿が赤んぼうをかかえて屋根にのぼっているのを見て、彼の祖父がどんなに肝を冷したか、我々にも想像できます。しかし、もしそのとき、猿が赤んぼうを落してしまっていたら、英国が今日どのようになっているか、想像することもできません。

 オリバーには姉妹が6人いましたが、兄弟はいませんでした、ですから、彼の友だちは、クラスメイトでもあるその小さな町の少年たちでした。
このイギリスの未来の統治者が良い生徒であったかどうかは、わかりませんが、彼が他の少年たちと同じような少年であったことを示す多くの話があります。
オリバーの叔父、オリバー・クロムウェル卿は重要な人物で、オリバーの父の持つ農場よりはるかに大きな地所に住んでいました。事実、彼はイングランドでは、たいへん重要な人物で、一度ならず国王ジェイムズ一世の訪問を受けています。
その訪問の際、王はその息子チャールズを伴うこともありました。オリバー卿が王をもてなしている間、2人の少年、オリバー・クロムウェルとチャールズ王子は遊んでくるようにと庭に出されました。少年たちはけんかになり、取っ組み合いをし、オリバーが勝ったと伝えられています。
何年かの後、彼らはふたたび軍隊を率いて戦うことになりました、そして、イギリスにとって幸いなことに、勝ったのは、またクロムウェルだったのでした。

 17歳になると、クロムウェルはケンブリッジ大学に入学しました。中世のころは、イギリスでは修道士以外、読み書きできる人間はほとんどいませんでした。王や大貴族さえも、やっと自分の名前を書くのがせいぜいでした。やがて、1272年から1307年にわたって王位にあったエドワード一世時代になると、裕福な人びとが国のあちこちに学校や大学を設立しはじめました。多くのグラマー・スクールや、オックスフォードやケンブリッジのたいていの大学は、その後200年〜300年の間に設立されました。有名なイートン校は1400年の創立です。
はじめは貧しい少年たちのために計画されましたが、これらの学校や大学はやがて富裕な商人たちの息子でいっぱいになり、クロムウェルの時代までには、貧しい少年たちがそこに入ることは、容易でなくなっていました。
ストラットフォード・オン・エイヴォンのグラマースクールに通ったシェイクスピアは、「朝の明るい顔をしながら、しぶしぶと、カタツムリのようにのろのろ学校へ通う」 少年について書いています。学校はたいてい朝6時に始まったので、当時の少年たちがいやいや通ったのも、おどろくにあたりません。

 クロムウェルは、ケンブリッジに1年とは通いませんでした。父親が死んで、彼は農場の世話をするためにハンティンドンにもどらなければならなかったのです。このすぐ後、彼は法律の勉強をするためにしばらくの間ロンドンに出ました、そしてロンドンにいる間に、ロンドンの裕福な商人、ジェイムズ・ブーチャー卿の娘と結婚しました。
ロンドンからハンティンドンまでは62マイルあります。オリバー・クロムウニルと妻が、道路とは呼べないような道を馬車で行くには、たぶん2日かかったことでしょう。
オリバー・クロムウニルが生れるすぐ前にイングランドを訪問したある公爵が、ロンドンからケンブリッジへの旅についてこう書いています。「我々は険悪な沼地だらけの荒涼とした地方を通った、泥はたいへん深くて、雨の日に馬車で通ることはほとんど不可能であろう」
途中で一晩泊まったとしたら、彼らは宿屋に泊まったことでしょう、そこでは、2、3シリングでおいしい食べものと宿を得ることができました。
イングランドの道は悪路でしたが、宿屋はその当時、世界じゅうで最上の部類でした。

 クロムウェルと妻が帰った地所は、実際大きな農場で、彼らが必要とするものの大部分を供給してくれました。クロムウェルと同時代の人であるトーマス・オーバーベリィという作家は、このような農場における生活について、次のように書いています。「彼自身の農場が、彼に食物と衣服を提供する、そして彼は、神が与えてくれるいかなる食物にも満ちたりている」
クロムウェルは貧乏人ではなかったので、こればかりではなく、家用の亜麻や、妻のために絹やレースを買うことができました、また、農場では栽培できない砂糖やスパイスのようなものを買うこともできました。
その後20年間、クロムウェルは健康的な戸外の生活を送りました。彼は眠りすぎは悪い習慣だと考えていたので、朝は早く起きました。彼は使用人といっしょに農場で働きましたが、その地方の情勢にも大いに関心をもっていました、そして1628年、ハンティンドン選出の国会議員となりました。
これが、後にイングランドの護国卿として終ることになる経歴の始まりでした。

 1628年にクロムウェルが入った議会は、嵐のような情勢でした。チャールズ一世は、人民の同意を得ないで税金を徴収し、彼に、金を貸すのを拒絶していたという理由で、多くの人びとを投獄していたのです。
議会はこのような違法行為を止めさせることを決議しましたが、エリオットという名前の議員が、王に対する不平不満のリストを作製しました。
それが下院の投票にかけられたとき、議長は王の怒りを恐れて、それが通るのを阻止しようとしました。ついに、議員が投票している間、議長は椅子に押えつけられなければなりませんでした。これは、議長が不在の場合には、下院における投票が無効になるからでした。
王はただちに議会を解散しました、そして、クロムウェルはハンティンドンにもどりました。彼は今や昔の彼ではありませんでした。彼は議会で演説し、王の不法な行為に対して、他の議員とともに怒ったのでした。
次の議会がウエストミンスターにおいて召集されたのは、11年後のことでした。その間に、多くの人民はチャールズ王に対する怒りと不信を増したのでした。

 その当時、イングランドには、清教徒として知られる多くの人びとがいました。我々はこれらの人びとを、すべての種類の楽しみを嫌悪し、他の人びとの楽しみを妨害するのにも熱心で、いつも陰気な顔をして歩きまわる人だと考えるようになっています。しかし、それは誤りです。彼らみんながそのようであったわけではありません。
オリバー・クロムウェルは清教徒でした、しかし、彼は音楽やダンスを好み、競馬場に行くのも好きでした。彼のような清教徒も多かったのです。
清教徒(ピュリタン) と呼ばれた最初の人びとは、エリザベス時代の人たちでした。彼らは教会の活動や統治をもっと簡素にすることによって、それらを 「ピューリファイ(純化)」 しようとしたので、その名前がつけられたのです。
ジェイムズー世がエリザベス女王の後を継いだとき、彼はすべての清教徒を国外に追放する命令を出しました。
清教徒の数は非常に多かったので、これは不可能なことでした、そしてやがて、チャールズ国王の統治方法を嫌う多くの人びとが彼らの仲間に加わりました。清教徒に悪名をもたらしたのは、自分たち以外のすべての人間は邪悪であり、善良であるためには陰気にしていなければならないと考える人びとだったのです。

 もし、我々がクロムウェルの時代にイングランドに住んでいたならば、清教徒たちが着ていた衣服と、王や教会側の人びとが着ていた衣服とは、たいへん違っていることに気づいたでしょう。
その時代の裕福な人びとは、レースの衿やカフスがついた、色とりどりのベルベットや絹の服を着て、上着やドレスにはぜいたくな刺しゅうが施されていました。多くの男たちは、ひざのあたりにレースか色のついたリボンをつけていました、そして、みんな髪の毛をたいへん長くしていました。王とその宮廷たちは、とてもはなやかで色彩に富んだ光景だったにちがいありません。
清教徒たちがしたことは、まったく逆でした。彼らは質素な白い衿のついたくすんだ色の、簡素な服を着ました。婦人たちは黒いドレスを着、宝石類は身につけませんでした。清教徒の男たちと王党員(王側の男たちはこう呼ばれていました) の主な相違点は、清教徒が髪の毛を短く刈っていたことです。このため、彼らは後になって、円頂党員として知られるようになりました。
清教徒の話し方や行動は、物静かでまじめでした、そして、いつもきびしく安息日を守りました。

 議会不在の王政の11年間に、イングランドでは多くのことが起りました。人民の不平不満のリストを作製したジョン・エリオット卿は投獄され、ロンドン塔の中で獄死しました。
人びとを怒らせたことのひとつに、船舶税と呼ばれる税金がありました。
昔、イギリスの沿岸地方の町は、海軍のために船を供給することを強制されていました。このようにして船を手に入れれば、王はまるで金がかからなかったのです。そして、それが今になって不法に復活されたのでした。
沿岸の町の中には船を持たないのに金を払わされた町もありました、そしてまもなく、国じゅうのすべての町が、海岸沿いであろうとなかろうと、寄付するように命令されたのでした。
多くの人びとが払うのを拒否しました、それら拒否した人びとのなかに、オリバー・クロムウェルのいとこのジョン・ハンプデンがいました。
不法な税金に反対し論陣をはった勇敢なイングラン人ウィリアム・プラインは、さらし台にさらされました。多くの人びとが彼の味方であることを示そうと集まり、王の衛兵も彼らを追い払うことができませんでした。

 いとこのジョン・ハンプデンが、船舶税を払うのを拒否したかどで裁判にかけられていた間、オリバー・クロムウェルはリンカンシャーにおいて、自由のために別の戦いに挑んでいました。
クロムウェルがその当時農場を持っていたセント・アイヴズの近くの土地は、たいへんな湿地帯でした。排水すればよい農地になるので、王の大臣たちは、それを排水するのに国の金を使おうと提案しました。それ自体はよいことだったのですが、ただ彼らは排水後にその農地を、王の友人であるベッドフォード家に与えようとしていたのでした。
セント・アイヴズの周辺に住んでいた人びとは、これにたいへんに怒りました、そして、クロムウェルはハンティンドンにおいて、それに反対する大集会を開く手はずを整えました。
クロムウェルは、王のイギリス統治の仕方についてますます心を痛めるようになりました。他のイギリス人のなかにも、同じように感じている人びとが多くいました、そして、彼らのなかの何百人という人びとが、自由を求めてアメリカの新しい植民地に移住しました。クロムウェルといとこのハンプデンも移住しようと思い、実際に乗船しようとしたのですが、王からの命令で乗船を阻止されたという記録が残っています。

 11年間、王は自分の思いどおりに国を治めていたのでしたが、不法な税金をかけても十分な金が手に入らないことに王は気づきました。それで、彼はふたたび議会を召集することを余儀なくされたのです。
議員たちがウエストミンスターに集まったとき、彼らは、議会によって任命された大臣の助言に従って、国を治めることに王が同意しなければ、王に金を与えないことを、以前にもまして決意していました。議員たちは王の大臣の1人を逮捕して、死刑さえも宣告したのでした。
チャールズ王はたいへん愚かな人物でした。彼は議会がしたことを聞くと、議員のうちの5人を逮捕しようと、兵士たちとともに議会におもむきました。しかし、議員たちは王がやってくるのを知って、彼が着いたときにはすでに逃げ去っていました。王は下院をさがしまわりました。「わかった」 と、彼は言いました 「鳥はみんな飛び去ってしまったな」
王は力ずくで自分の思いどおりにやろうと決意して、宮殿にもどりました。しかし、議員たちも王と同じく怒っていました。王と議会との間に戦争が起ることは、今や明白でした。

 王と議会のいずれもが、今や軍隊を編成しはじめました、そしてまもなく、イギリス国民は、王の側に立って戦おうとする人びとと、自分たちの代表者である国会によって国が治められるべきだと決意した人びととに、二分されることになりました。王に味方したのは、主として北部や西部に住む人であり、議会を支持したのは、東部および東南部に住む人びとでした。
クロムウェルはリンカンシャーにもどり、60人の騎兵隊を集めました。彼はこの騎兵隊とともにケンブリッジへ進軍し、その城を占領しました。その城の中には、王を援助するために売られる予定だった金銀製品がいっぱいありました。
その間に、王はノッティンガムに軍隊を集め、ロンドンに進軍しはじめました。
クロムウェルと彼の軍隊は、エセックス伯爵の指揮する議会軍と合流しました、そして、王軍と議会軍がワーウイックシャーのエッジヒルと呼ばれる場所で戦ったとき、クロムウェルの部下は、他の多くの兵隊たちが逃げ去ったときもしっかりと部署についていました。これは、クロムウェルがたいへんきびしい指揮官であり、彼の部下がよく訓練されていたからでした。

 イングランド人がイングランドの町や野原でお互いに戦ったり、殺し合ったりしたことは、今日の我々には奇妙なことに思われます。しかし、これは実際に起ったことであり、戦闘がもっとも激しかったところではどこでも、クロムウェルとその部下が参加していました。ある戦闘では、クロムウェルが乗っていた馬が撃たれたこともありました。
やがて、リンカンシャー全体が彼のもとにおかれることになりました、そして彼の任務のひとつは、武器や貴重品を求めて、王側に立つ人びとの家探しをすることでした。
疑いを持たれた王党員の1人に、叔父のオリバー・クロムウェル卿がいました、その家には、子どものころ、彼はよく遊びにいったものでした。
オリバー卿は奇妙な老紳士で、自分の家が甥の部下たちによって家探しされることをたいして気にしなかったようでした。彼ら2人は気持よく話をし、兵士たちが銃や弾薬や備品を持って立ち去ったとき、オリバー卿は甥を祝福しました。クロムウェルが自分の親類と対立する立場に立ったのは、このときがはじめてではありませんでした、親類のなかには両派がいたからです。

 王に味方する人は主として、議会側が勝てば彼らの土地や財産が没収されるのではないかと恐れている裕福な人びとでした。馬や馬車が外出の唯一の手段であったその当時は、これらの人びとは多くの馬を持ち、みんな馬に乗ることに慣れていました。そのために、王側は多くの騎馬兵士を有し、彼らは騎兵隊と呼ばれていました。
このため、王に味方する人びとはキャバリア(騎士) として知られるようになりました。
17世紀の歩兵は、騎馬の兵隊の攻撃に対抗できる武器を持っていませんでした。王の甥であるルパート王子は王の騎兵隊を指揮し、しばしば歩兵隊から成る議会軍をおそいました。
そこで、クロムウェルとハンプデンは、エッジヒルにおける戦いの後、ルパート王子の騎兵隊と戦うためには、より多くの騎馬の兵士を保有しなければならないと決意しました。クロムウェルは、ただちに騎兵隊を編成するために働きはじめました。これらの兵士は 「新編成軍」 と呼ばれました。彼らはまもなく、他の名前を得ることになります。

 おのおの約2万人の兵力を持つ両軍は、しばらくの間は正式な会戦をすることもなく、イングランドの各所にとどまっていました。と同時に、小ぜりあいは国じゅうで起っていました。あるときは、一方に反抗する小さな市のたつ町で、あるときは、円頂党員の一隊が地方の王党員の家を包囲することもありました。
一方では、王と議会は和平交渉のため使者をやりとりしていました。しかし、これは、王が信頼できないことが議会側の人びとにすぐにわかったため、むずかしくなりました。王は何でもすぐに約束しましたが、ふたたび権力の座にもどると、その約束を決して守らないつもりです。
ある戦闘のあと、王の秘密文書が大量に押収されたことがありました。議会側の将軍はそれを読んで、今までずっと王にあぎむかれていたことを知ったのでした。
やがて、マーストン荒野において戦闘が起りました。ルパート王子が、クロムウェルの騎馬兵は鉄の横腹を持っているにちがいないと言ったのは、この戦闘の後でした。それで彼らは 「アイアンサイド(鉄の横腹)」 の名で広く知られるようになったのです。

 「マーストン荒野の戦い」 は、1644年7月のある日、ヨークの近くで争われました。その結果はルパート王子が率いる王軍の敗北に終りました。
議会軍にはスコットランドの兵隊たちが加わっていて、荒野を見下ろす丘の上に陣を張っていました。クロムウェルは彼の騎兵隊を率いて左翼に陣どりました。
ルパート王子は、彼らと戦うためにヨークから進軍してきて、議会軍の下の荒野に陣を張りました。両軍間の距離はごく近く、ルパート王子の軍隊が戦闘位置につかないうちに、議会軍は丘を下って攻撃してきました。
はじめのうちは、議会軍が敗れそうでした。右翼に位置した王軍がスコットランド兵をけちらし、勝利を得たものと思い、彼らが逃げる後を追いかけました。このためルパート王子の騎兵隊は、クロムウェルの鉄騎兵隊と面と向かって戦うことになりました。長く激しい戦いの後、クロムウェルのよく訓練された軍隊は、勇敢ではあるが規律のない王党騎兵隊を打ちやぶりました。やがて彼らは戦場から追い払われ、戦いはクロムウェル軍の勝利に終りました。

 マーストン荒野の戦闘で、両軍から勇敢なイングランド人の戦死者が数多く出ました。2万人の部下を率いてヨークから進軍してきたルパート王子がオックスフォードに退却したときには、わずか6000人の部下しか残っていませんでした。
クロムウェルは今や陸軍中将となりました、これで、彼はその指揮下に多数の部下を持つことになりました。議会側の人びとは、彼がどんなに有能な将校であるかを知っていましたので、後には、彼は議会軍全体の指揮官に任命されました。
戦争は今や、ほとんどイングランドの南部及び西部で行われていました、そして1645年、ノーサンプトンシャーのネイズビーの戦いで、円頂党軍の勝利は確定的なものとなりました、王の軍隊は至るところで敗れ、クロムウェルがオックスフォードを包囲したとき、王は敗北を悟ったのでした。
そこである夜、召使いに変装して、王は議会軍の間を通って忍びでました。王は海岸に出て、スコットランドへ連れていってくれる船をさがそうと思ったのです、しかし、すべての海岸は、クロムウェルの軍隊によって厳重に守られていました。彼はついにニューアークに着きました、そこはスコットランドの軍隊が彼のために確保してある場所でした。ここでしばらくの間、王は安全でした。

 スコットランド人たちもまもなく、議会が前にわかったように、チャールズは信用できないことに気づきました。彼らは、もし王がイングランド教会を、司教をおかないスコットランドの教会と同じようにすると約束すれば、彼をイングランドの王位に復位させると申し出たのです。チャールズは約束しました、しかし、彼がフランスの軍隊に自分たちと戦わせようとしているのを知ったとき、スコットランド人たちは、王が決して約束を守るつもりがないことを悟ったのでした。
1647年1月30日に、スコットランド人は40万ポンドで王をイングランドの議会に売り渡しました。
議会はチャールズをホームビー・ハウスと呼ばれる場所に閉じこめました。しかしまもなく、議会と円頂党との間に紛争が起り、クロムウェルは、王を自分と自分の軍隊でおさえておく方がよいと考えました。
真夜中にジョイスという将校が、クロムウェルの鉄騎兵の一隊とともにホームビー・ハウスに馬で乗りつけて、王に降伏を要求しました。議会軍の衛兵が、誰の許しでそのような要求をするのかとたずねると、彼はピストルを引きぬいて言いました 「これによってだ」 それ以上、はむかう者はいませんでした。

 議会はクロムウェルがしたことを聞くと、たいへん怒って、彼の逮捕を命じました。クロムウェルには軍隊がついており、その軍隊は、かつて王に敵対したときと同じように議会に敵対していましたので、その命令を実行するものは誰もいませんでした。事実、事態は反対の進展を見せました。
クロムウェルは軍隊を率いてロンドンへ進軍し、多くの議員を下院から追放したのです。
クロムウェルは賢明な人でした。イングランド国民は王を必要としているけれども、その王は、人民の意志によって統治する王でなければならないことを彼は悟っていたのです。彼はチャールズにその道理をわからせようと思いました。
チャールズがふたたび逃亡して、ワイト島に避難したという知らせが届きました。
クロムウェルは、チャールズをいわゆる立憲君主、すなわち、法律は王によってではなく、議会によって作られる政体の君主として王位に復活させたいと、まだ望んでいました。彼は何回も長時間チャールズと話し合いました、しかし、チャールズがまだスコットランド人やフランス人と陰謀を企てているのを知って、その望みもないことを悟りました。

 ついにクロムウェルさえも、チャールズがどんな約束をしても、それは決して守られないという事実を認めるに至りました。彼は国会に残っていた議員とともに、次のことに同意しました。王は彼の失政の結果としてイングランドの上にふりかかったすべての害悪に関して有罪とされるべきである、と。
1649年1月20日、チャールズ王は、ウエストミンスターの法廷に引きだされ、暴君として、また、内戦で何千人というイングランド人を死に至らしめた人物として告発されました。彼は有罪とされ、10日後、ホワイトホールの宮殿の庭に深く雪が積もっていた日に処刑されました。
クロムウェルは王の命を救おうと最善をつくしました。チャールズは、もしも信頼できないばかりでなく、あれほど愚かで頑固でもなかったならば、王位にとどまっていられたかもしれません。
王は死にました、しかし、スコットランド人やイングランドの多くの人びとは、彼の息子をイングランドの正当な王と認めていました。彼はスコットランドで王位につきました、このシリーズの別の本のなかで、あなた方は、彼がチャールズ二世として1660年にイングランドにもどってくるまでのさまざまな冒険について、読むことができます。

 今や、問題は、誰がイングランドを治めるべきかでした。議会に残っていた議員はわずか56名で、彼らはすぐに仲間割れをしはじめました。クロムウェルは、戦争の痛手を回復するのに必要な法律を通せるほど長期にわたって。彼らが意見を同じくすることは決してないだろうとすぐに見抜きました。
クロムウェルは、チャールズ王が11年前にしたことを、今度は自分がしなければならないことを悟りました。彼は多数の兵隊を従えて下院に行きました。しかし、チャールズが失敗したところを、クロムウェルは成功したのです。
議会に入場しながら彼は叫びました 「君たちはもはやここにすわるにふさわしくない。去って正直な人びとに席を開け渡せ」
議員たちは兵隊たちに外へ追い出されました、そし議会の権威の象徴である権票が取り払われました。クロムウェルはドアに鍵をかけ、その鍵をポケットに入れました。彼と兵隊たちが立ち去ったあとに、下院のドアに1枚の紙が釘で止められていました。それには 「貸家、ただし家具なし」 と書かれていました。それはほんとうでした。クロムウェルは今や、イングランドの最高の統治者となったのです。

 クロムウェルは、いわゆる独裁者になろうとは思いませんでした。国は人民によって選ばれた議会によって統治されるべきだと、彼は信じていたのです。彼は2度議会選挙を実施しました、しかし、その2つの議会とも彼の国の統治方法に同意しなかったので、いずれもわずか数か月で解散されました。
クロムウェルに王位につくよう勧めたのは、2度目の議会でした。もし彼がその申し出を受け入れていたら、その名は我々にはとても奇妙にひびきますが、彼はオリバー一-世になっていたことでしょう。彼はことわりました。彼は護国卿として、王よりもはるかに大きい権力を自分が持っていることを知っていたのです。
この間じゅうずっと、イングランドは実際には軍隊によって支配されていました。クロムウェルは、チャールズ王の側に立って戦ったすべての人びとに憎まれ、後に軍隊に対抗して議会に味方した人びとに嫌われました。
イングランドは当時、スペインと戦争していました、そして、イングランド海軍のもっとも偉大な軍人の1人であるブレイク提督が、テネリフ沖でスペイン艦隊を撃滅しました。この勝利により、またスペインからジャマイカを占領したことにより、クロムウェルはイングランドをヨーロッパ各国から重んじられる国にしたのです。

 イングランドは、クロムウェルが護国卿である間はよく統治されていました。しかし、1215年のジョン王とマグナカルタ(大憲章) の時代以来何百年もの間、イングランドの人民は自由人として彼らの権利のために戦ってきていました。
その権利のひとつであり、またもっとも重要なものは、人民が自ら統治する権利でした。彼らはその権利が自分たちから奪われたことを今や感じていたのです。クロムウェルがどんなに上手に治めても、彼の言葉が法律でした。人びとがそのことに口をさしはさむことはできなかったのです。
アイルランドにおいては、クロムウェルはすべての人間のなかでもっとも憎まれている人物でした。アイルランドには、チャールズ一世が処刑された後も、チャールズ二世のために喜んで戦おうとする人びとがまだいました。彼らを鎮圧するために、クロムウェルは軍隊を率いてアイルランドに渡りました。
アイルランド人は、訓練されかつ経験豊かな軍隊の敵ではありませんでした。彼らに抵抗しようとした、ドロゲダとウェクスフォードという2つの町は包囲され、すぐに占領されました。町の守衛隊はすべてなさけ容赦なく殺されました。今日に至るまで、アイルランドの人びとはクロムウェルの事件を憎んでいます。彼らはドロゲダとウェクスフォードを決して忘れませんでした。

  オリバー・クロムウェルは偉大な人物であると同時に勇敢な人物でした。彼は内戦の戦闘の場では、つねに部下とともに攻撃に参加しました。
今や、彼を殺すことのみを願っている多くの敵がいるのに、彼は国じゅうを自由に動き回りました。彼は神が守ってくださると、つねに信じていたのです。
彼を暗殺しようとする企てがいくつもありました。その企てはつねに失敗に終り、その失敗がクロムウェルの信念を強めました。彼には神から命じられた仕事があり、それは成し遂げられなければならなかったのです。
クロムウェルはまた善良な人でした。彼は信仰心が深く、どん欲でも──アイルランドでの行為を除いては──残酷でもありませんでした。彼は子どもたちにはよき父親であり、正直な人びとの友人でもありました。
チャールズ二世がイングランドにもどってきたとき、クロムウェルの死体が墓の中から持ち出され、その首がすべての人が見るようにと杭の上にさらされたのは、わが国の歴史のなかの汚点です。それは、正々堂々たる戦いのなかで彼に打ち負かされ、彼によって自分たちの国を暴政から救ってもらい、そして彼によって自由を保証された人びとの側の卑劣で、価値のない復しゅうでした。


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