レディバードブックス100点セット
 

 

ナイチンゲール

 フローレンス・ナイチンゲールの名前は、世界じゅうに知れわたっており、あらゆる文明国の人たちに尊敬されています。ナイチンゲールの生涯をかけた働きのおかげで、こんにち、病人は世界じゅうにある、たくさんの病院や療養所で適切に看護されています。
フローレンスの父親は金持でした、ナイチンゲールは、1820年に、両親が住んでいたイタリアのフローレンスで生れました。それで、フローレンスという洗礼名がつけられたのです。
まもなく家族はイギリスへもどり、フローレンスは、まじめすぎるほどの少女に成長しました。人形遊びが大好きで、そのうちでも一番好きな遊びは、人形を病人にみたてて健康になるよう看護することでした。
同時に、フローレンスは、父親からイギリスの政治のこともたくさん学びました、そして、母親といっしょに近くのロムゼイという小さな町の病人を訪ねて、食べものを持っていったり、看護をしたりしました。

 ある日、フローレンスは、近くの教会の牧師さんといっしょに馬で外出しました。野原を走っていたときに、年寄りの羊飼いが、羊の番犬のキャップと道ばたにすわっているのをみつけました。
羊飼いは、彼の犬をとてもかわいがっていましたので、事故にあったことをたいへん悲しんでいたのです。犬の足は折れていました、このままではかわいそうにも、キャップは殺されるほかはないようなようすでした。
このことを聞いたフローレンスは、小馬から飛びおりて牧師さんといっしょに犬の折れた足を調べました。2人はそえ木を作ってあててやり、包帯を巻いてやりました。まもなく、その犬は以前のように走りまわれるようになりました。
羊飼いは、フローレンスにとても感謝しました、そして、フローレンスが世界でもっとも有名な看護婦になったとき、羊飼いは、フローレンスの最初の患者は自分の犬のキャップだと、よく人びとに話したものでした。

 若い女性に成長したフローレンスは、これまでの人形遊びから、人間やイギリスに起りかけていた新しい変化の方へ興味が移っていました。フローレンスの父親はハンプシャー州の長官をしていましたので、のちに首相になったパーマーストン卿をはじめ、たくさんの有名人がフローレンスの家にやってきていました。
そのころのイギリスは、農業国から大きな都市や工場を持った国に変ろうとしている時期でした。鉄道が敷かれ、また電信機のようなものも発明されて、人びとの生活様式も変ってきました。
フローレンスは、探究心が旺盛でしたので、どんなことでも自分の目で確かめなければ気がすみませんでした。そんなわけで、ある日、病院を訪ずれたときに、突然自分のやるべき仕事をみつけたのでした。
フローレンスの見た病院は、当時はほとんどの病院がそうでしたが、きたなくてひどい状態でした。看護婦は患者の看病のしかたを知らず、入院した患者は、ふたたび生きて帰れるとは思っていないほどでした。

 当時の看護という仕事は、今のように立派な職業ではありませんでしたので、フローレンスが看護婦になりたいと話すと、両親はびっくりしてしまいました。両親は、教育を受けた若い女性にふさわしい仕事ではないと、フローレンスが看護婦になることを止めさせようとしました。
数年間にわたって両親の許しを得ようとしましたがだめでした、その間にも、フローレンスは、手に入るかぎりの医学の本で勉強しました。親せきの誰かが病気になると、フローレンスはわきめもふらずに看護にかかりきりになりました。フローレンスには、9人のおじさんやおばさんがいて、ほとんどの人が子どもを持っていましたので、看護の練習には不自由しませんでした。
30歳になったとき、フローレンスはついに両親をときふせ、看護術を学ぶために、ドイツとパリに行くのを許してもらいました、それからの4年間、フローレンスは自分の選んだ仕事に全力をつくして勉強しました。
そのとき、フローレンスの全生涯を変えることが起りました。クリミア戦争が始まったのです。

 クリミア戦争は、フローレンスが34歳のときの1854年に起りました。この戦争は、ロシアと、イギリスやフランスの援助を受けたトルコとの間で行われました。
クリミアは、ロシアの南部にあって、イギリスからはとても遠いところでした。イギリス兵がクリミアに送られたときには、そこがどんなところで、どんな気候なのか誰もよく知りませんでした。冬になると非常に寒くなる気候でしたが、イギリス兵は夏服だけしか持っていませんでしたので、たいへん苦しみました。また、荷物は全部船で送られましたので、とても時間がかかり、中には途中で難破してしまう船もありました。
イギリス兵は勇敢に戦い、まもなくアルマの戦いで最初の勝利を得ました。
アルマの戦いというのはアルマ川にちなんで呼ばれたもので、イギリス軍はクリミアに上陸後わずか6日目に戦ったのでした。イギリス兵は、川を渡って、ロシア兵がかくれている反対側の丘に攻めこみました。やがて、その丘を占領し、ロシア兵は、セバストポーリという町へ退却してしまいました。

 多数のイギリス兵が、アルマの戦いで負傷しました。負傷者はまず海岸まで運ばれ、そこから船でスカタリの病院へ運ばれていきました。
今では世界のどの国でも、戦争でけがをした兵隊を看護するために救急車や医療施設をおいています。しかし、1854年ごろには、救急車はありませんでしたし、負傷兵は粗末な荷車で、デコボコ道を運ばれるしかありませんでした。運ばれる途中で、何人もの負傷兵が死んでいきました。
イギリス国民は、もし 「タイムス」 新聞社が記者をクリミアに派遺しなかったならば、何も知らずにいたかもしれません。記者は、そこで起っているすべてのことを見て、イギリス軍の負傷兵の状態を新聞に書きました。記者は伝えました。「私たちの負傷兵は、海岸までの3マイル(約5キロ)の道のりをガタガタゆられながら荷車で運ばれます。フランス軍はほろ付きの病院用運搬車を持っていて、フランスの負傷兵は、気の毒な私たちの負傷兵よりもずっと楽に運ばれているのです」 と。

 やっとのことでスカタリにつき、負傷兵は病院に送られましたが、その病院も今のような病院とは全然違うものでした。建物は古く、よごれていて、今にもくずれ落ちそうでした、ベッドも十分になくて、負傷兵は床にゴロゴロ横たわっていました。
ときには毛布さえない人もいましたし、医者もとても少なかったので、ときには、負傷兵が手当てを受けるのが数日後になることさえありました。
適切な看護を受けていれば、生きられたかもしれない兵士たちが、たくさん死んでいきました。
イギリスの病院には、もちろん看護婦はいませんでした、イギリスの負傷兵は、自分たちよりも、もっとよい病院で修道女に看護されているフランスの負傷兵たちを、うらやましく思っていたにちがいありません。
「タイムズ」 紙に荷車のことを書いた記者は、スカタリの病院を訪れて、次のような記事を書いてイギリスに送りました。「スカタリの病院に横たわっている病人や苦しんでいる負傷兵を、すすんで看護する有能で献身的な女性が、わが国にはいないのでしょうか?」

 イギリスの陸軍大臣は、シドニー・ハーバートという人でした、スカタリの病院のことを書いた記事を読んだシドニー・ハーバートは、看護婦を送るべきだと決めました。すでに、フローレンス・ナイチンゲールを知っていたので、フローレンスに手紙を書きました。
「そのような計画を組織する能力のある人は、私の知るかぎりイギリスではあなただけです。現地に行き、すべてを組織するという願いを聞いていただけないでしょうか?」
フローレンスは、シドニー・ハーバートの手紙を待ってはいませんでした。スカタリの病院の記事をフローレンスも読んでいましたので、その日にすぐ手紙で現地に行くことを志願していたのでした。2日後、フローレンスは、陸軍省にシドニー・ハーバートに面会に行きました。
すべてのことが早急に運ばれて、1週間もしないうちにフローレンスは、イギリス病院に送られる看護婦の総監督として正式に任命されました。
フローレンスがまずやらなければならない仕事は、看護婦として適当な人で、すぐ出発できる人を捜し出すことでした。

 フローレンスには、ブレイスブリッジ夫人という親しい友人がいました、夫人は、いっしょに現地へ行ってフローレンスの仕事を手伝いたいと申し出ました。喜んで志願してきた看護婦たちを、フローレンスが面接しはじめたときには、ブレイスブリッジ夫人がそばにいました。
ロンドンに事務所が開設されると、すぐにたくさんの女性が面接を受けにやってきました。40人採用のところに、数百人の志願者が集まり、適切な人を選ぶのは非常にむずかしいことでした。
女性たちの多くは、粗野で、無知であり、訓練は何ひとつ受けていませんでした。りっぱな教育を受けた女性もいましたが、負傷兵を看護することをロマンチックなことと思っているだけで、陸軍病院の状態をまったく知らない人たちでした。
数百人の女性たちと面接してから、フローレンスは最終的に38人を選びました。そのほとんどの人たちは、教会関係の看護施設からきた献身的な看護婦でした。

 フローレンス・ナイチンゲールは、時間をむだにしませんでした。いつも、スカタリの傷病兵のことを考え、自分と看護婦たちが少しでも早く到着すれば、よりたくさんの人が助かることを知っていました。現地行きを申し出てから1週間以内に、フローレンスたちは長い航海に向かう、乗船の用意ができました。
イギリスの多くの人たちは、フローレンス・ナイチンゲールを勇敢な、愛国心に富んだ人と思いましたが、なかには、嘲笑している人もいました。
そういう人たちは、トルコの悪天候は女性には無理で、傷病兵を看護するかわりに、彼女たちが病気になって、自分たち自身が看護を必要とするようになるだろうといいました。
この勇敢な女性たちの小部隊がロンドンを出発したときには、兵士たちが行進して出発したときのような、歓呼の声をあげる群衆はいませんでした。人びとは冷たい目でながめ、すぐ帰ってきてしまうだろうと陰口をたたきました。
しかし、フローレンス・ナイチンゲールと看護婦たちは、そのようなことには目もくれませんでした。彼女たちは、ただ何が自分たちの義務であるかを自覚し、それを行うだけだったのです。

 ビスケイ湾を横切り、ジブラルタルを通って地中海に航海するかわりに、看護婦の一行はフランスを横断してマルセーユへ行く陸路をとりました。
イギリス海峡を渡り、ブローニュに到着すると、すばらしい歓迎が用意されていました。
フランス人の群衆はフローレンスたちをヒロインとして歓迎し、先をきそって荷物を持とうとしました。どこへ行っても、フローレンスたちが必要なものは何でも与えられました。ホテルに泊まっても、ホテルの主人はお金を受けとろうとしないし、フランスの鉄道までもが旅費はいらないと主張しました。
フローレンス・ナイチンゲールにとって、このようなことはささいなことでした。フローレンスの唯一の望みは一刻も早くスカタリに到着することでした。兵士たちが、自分のたちのしてやれる看護が受けられないために死んでいこうとしているのを、フローレンスは知っていました。フランス横断の旅が終ったのを、フローレンスはうれしく思いました、そして、フローレンスたちは、東へ向かう航海のために 「ベクチ号」 に乗船しました。

 フローレンス・ナイチンゲールと看護婦たちが、フランスを離れたのは、10月も終りに近いときでした、地中海は、1年中でもっとも海の荒れる時期でもありました。船が出航し陸地が見えなくなると、すぐに大暴風雨となりました。
フローレンスたちが乗ったのは帆船でした、やがて強風のため、何枚かの帆が吹き飛ばされてしまいました。船は座礁の危険にさらされていました。
これに加えて、多くの看護婦は船酔いしてしまい、志願したことをまもなく後悔しはじめました。
幸運にも風が変わり、船はマルタ島の港に入れることができました。ここで、フローレンスたちは、暴風雨がしずまり、海が静かになるまで避難しました。それからふたたび航海し、マルセーユを出発してから8日後にスカタリに到着しました。

 一方、フローレンスや看護婦たちがまだ海上にいるときに、クリミアでは、バラクラバの戦いが起っていました。
バラクラバというのは、イギリスとスコットランドと数百人のトルコ兵が占領していた村の名前でした。ロシア兵はバラクラバを攻撃しましたが、イギリス騎馬隊の勇敢な行動に阻止されました。
このバラクラバの戦いは、軽騎兵軍団の攻撃として、イギリスの歴史上有名な戦いです。この軍団は、600人の騎兵によって編成されていました。
自分たちのとるべき行動を誤って、600人の騎兵たちは、ロシアの大砲が四方から発射するなかを、1マイル以上も谷をかけぬけなければなりませんでした。
多くの兵士たちが戦死したり、負傷しましたが、騎兵隊は大砲陣地に乗りこみ、敵兵を捕虜にするまで攻め続けました。
イギリスの大詩人テニソン卿は、この有名な攻撃を描写した詩を作っています。

 バラクラバの戦いで負傷した兵士たちがスカタリの病院に到着しはじめたとき、「ベクチ号」 が入港しました。しかし、軍医たちは、フローレンス・ナイチンゲールと連れられてきた看護婦たちを、歓迎しないで、冷たく扱いました。
年老いた軍医たちは、看護婦たちが病院をすっかり変えて、軍医たちが決めたしくみを変えるのではないかと恐れていたのです。フローレンス・ナイチンゲールが、きたなくてしかも運営方法の悪い病院を見たときに決心したのは、まさに医者たちの恐れていたことでした。
軍医長はジョン・ホール医師でした。ジョン・ホールは、看護婦たちを連れてイギリスに帰るようフローレンスに命令できなかったので、いづらくして看護婦たちの方から帰りたいといわせるように決めました。看護婦たちの宿舎に、暖房設備も家具もない、ネズミが走りまわっている古いこわれた塔を与えたのでした。
ホール医師は、フローレンス・ナイチンゲールが、かつてないもっとも信念の強い女性であるとは知りませんでした。フローレンスは、スカタリへ傷病兵の看護に来たのであり、ホール医師はどんなことをしてもフローレンスをやめさせることはできませんでした。

 病棟と呼ばれていた病院の病室は、ひどい状態でした。どおりで、ホール医師がイギリスから来た訓練された看護婦に病室を見せたくなかったわけです。病室は非常によごれていて、負傷兵は伝染病の患者と同じ部屋に入れられていました。そこには、十分なべッドも毛布もなく、食事といえばろくに調理もされてなく、病人が食べるころにはすでに冷えきってしまっていました。
ホール医師の言葉にもふるまいにもめけずに、フローレンスはただちに看護婦たちに床洗いや寝具の洗たくなど、負傷兵たちがここち良くすごせるようにさせました。
傷病兵たちは感謝しましたが、軍医たちは相変らず看護婦たちの仕事をしづらくさせました。軍医たちは、自分たちが任務をきちんと遂行していれば、看護婦たちが病棟の床を洗ったりきれいにしなくてもすむはずだということを知っていたのです。軍医たちは、フローレンスがイギリスにいる友人の陸軍大臣にその報告をするのではないかと心配しました。

 フローレンスは、忙しすぎてイギリスへ報告を書くひまなどありませんでした。フローレンスのただ一つの願いは、病院をきれいにし、いごこちを良くすることでした。
やがて、あらゆるものが見ちがえるほど改善されました。よごれた床のあちこちや、廊下にさえも横たわっていた負像兵も、今ではきちんと消毒された病室のきれいなべッドの上で横になっていました。これは、患者にとってたいへん良い結果をもたらしました。手当を受けたり、看護されていると感じただけで、患者たちはたちどころに快方に向かったのでした。
ほんの数日のうちに、みじめさと絶望のどん底にあって、死ぬことだけしか頭になかった患者も、起きあがるようになり、快活でうれしそうなようすになりました。
スカタリの病院は、イギリスの不名誉でしたが、今では献身的な数人の女性の働きで、イギリス兵が開戦当初から、うらやんできたフランス兵の病院よりもずっと良くなったのでした。

 ホール医師は非常に不愉快な人でした。フローレンスのやってきたことを感謝するどころか、ひどくねたんでいました。けれども兵士たちは、自分たちを顧みないホール医師のやり方を憎んで、希望と勇気を与えてくれた親切な婦人には、心から感謝していました。
フローレンス・ナイチンゲールの献身ぶりは、ホール医師からはつゆほども認めてもらえませんでしたが、若い医師たちは、負傷者たちが彼女のおかげで希望を持つようになった変化に気づきました。若い軍医たちは、いこじな軍医長よりも、寛大な心を持っていたのです。
イギリス国民は、看護婦たちが戦争で負傷した兵隊を看護するのに適しているかどうか疑いをもっていましたが、そのイギリス国民の心配は憶測にすぎなかったことを、看護婦たちは身をもって証明したのでした。その日から、看護婦たちは常に陸軍の一部となって、2回の世界戦争にわたって、数千、数万人の負傷兵の生命を助けたのです。

 100年前のイギリス陸軍は、現在の陸軍とはだいぶ違っていました。兵士たちは、インドのような土地から暑い気候に合ったうすい夏服のままで、クリミア戦争に送られてきました。しかし、クリミアの冬はきびしいのに、陸軍はイギリスから暖かい衣服を送る手続きさえしませんでした。
軍隊用のクツもまたひどく不足していて、イギリスから船で送られてくることを知ると、兵士たちはみな大喜びでした。しかし、クツが到着してみると、不幸にもすべてのクツが左足だけでした。
フローレンスは、こんな状態を打開しようと懸命でした。フローレンスは、暖かい衣服を買い入れ、兵士たちに分配しました、そして、2、3か月の間に、陸軍では配給できない1万枚のシャツもあてがいました。
それと同時にフローレンスは、看護婦たちといっしょに病院の料理場をひきつぎました、それから以後、負傷兵たちは適切に調理された、おいしい温かい食べものを口にすることができるようになりました。

 フローレンス・ナイチンゲールの名前は今や誰にも知られるようになり、クリミアでのすばらしい働きによって、どこへ行っても敬意を表されましたが、ホール医師は、以前と同様フローレンスを憎みました。
フローレンスが仕事を多くやればやるほど、ホール医師は自分のたいまんさを本国の人びとに証明していると気づいたのです。ホール医師は、フローレンスが手厚く世話をしすぎるので、負傷兵たちは病院から出ていかないのだと苦情を言いました。ホール医師は、病院をいごこち悪くすれば、兵士たちは喜んで前戦に帰っていくようになると考えていたのです。
そこである日、ホール医師はフローレンスを呼びつけ不機嫌そうに、フローレンスはためになるというより、じゃまをしているのだから、すぐ看護婦たちを連れてイギリスへ帰るべきだと言いました。
フローレンスは、言い返しませんでした。かわりに1枚の手紙をさし出しました、その手紙はその日受けとった 「ナイチンゲールと看護婦たち」 への今までの行ないに対する、ビクトリア女王からの感謝状でした。
ホール医師は何も言うことができませんでした。

 フローレンスは、女王からの手紙を全員残らず見るよう気を配りました。
その結果、フローレンスが負傷兵のために正しいと思ってとった行動に対して、誰1人異議をとなえるものはありませんでした。
数百人の負傷兵で病院がいっぱいになると、包帯やすべての医療品が大量に必要になりました。それらの品はいつも不足していましたが、ある日フローレンスは、ホール医師が彼女が使うことを許可しない大量の在庫があるのを発見しました。ホール医師は、ここにある在庫は委員会の承認がなければ出すことができないと言うのです。
フローレンスは、委員会が3週間後でないと開かれないと聞かされると、おこってしまいました。負傷兵たちは、これらの医療品が足りなくて苦しんでいたのです。
そこで、フローレンスと看護婦たちは、びっくりしているホール医師や委員会の人たちの目の前で、医療品の箱をこわして開けました。ホール医師たちは止めさせたかったのですが、ビクトリア女王の手紙を思い出して、口出ししませんでした。

 スカタリの病院で患者に与える食事は、以前よりもずっと良く調理されていましたが、変化に欠けていました。1つには、青野菜がなかったのです、人間は青野菜がないと、病気にかかりやすくなるものなのです。
フローレンスは、春が来たら病院のあき地をたがやして、野菜を作るのはとてもよいことだと心に決めました。そこでフローレンスは負傷した2人の軍曹を説得して、レタスとキャベツを植える土地を耕させました。
まもなく、暖かい春の太陽のもとで土を掘り返している軍曹をみつけた人びとは、たいへんおもしろがって軍曹のまわりに集まりました。見物人たちは、フローレンスが現れるまでは冗談だと思っていたのです。数分もしないうちに、見物人たちも上着を脱いで軍曹にまじって土を掘り返しはじめました。
ホール医師は怒り狂いましたが、負傷兵たちは青野菜が食べられ、そのために回復がずっと早くなったのでした。

 フローレンス・ナイチンゲールは、何事もつねに自分自身の目で確かめる女性でした。また、物事を円滑にする組織作りにすぐれた才能を持っていました。実際、あるとき、ビクトリア女王はフローレンスについて、「陸軍省にフローレンスがいてくれたら」 と言ったほどです。
負傷兵がぞくぞくとスカタリの病院に送られてきましたが、いぜんとして戦場の汚れがついたままの服装をしていて、傷に巻いた包帯はでたらめだったり、あるいは巻かれていないかのどちらかでした、そこでフローレンスは、バラクラバの前線にある救急所を検査することにしました。もちろん、ホール医師は中止させようとしましたが、いつものように失敗しました。
フローレンスは、まっすぐにクリミアへ行き、セバストポールのまわりにある、ざんごうのすぐうしろまで足をのばしました。ここでフローレンスは、無能なしっと深い軍医ではなく、フローレンスに生命を助けられた人びとや、もし負傷した場合には看護してもらえると思っている人たちに歓迎されました。
フローレンスが小さい馬車を走らせると、兵士たちは.フローレンスを女王のように大歓迎したのです。

 スカタリに帰ったフローレンスは、ふたたび病院の改善と負傷兵の看護に一身をささげて働きました。友人のシドニー・ハーバートはすでに陸軍大臣をやめていたので、いろいろな困難に遭遇しました。
しかし、フローレンスには、いぜんとして女王の支持と兵士たちからの敬愛がありました。女王は、ふたたびフローレンスに手紙を書きました。
手紙は次のように書いてありました。「戦争中にあなたが示した献身的な行為に対して、私が心からうれしく思っていることを、かしこいあなたにはよくおわかりのことと思います。私がくり返す必要はないと思いますが、私はあなたの奉仕を、わが国の勇敢な兵士たちと同じように、心から感謝しております」
兵士たちの、フローレンスに対する気持は、言葉で表現できないほどのものでした。
夜間や、ときには真夜中のずっと後まで、フローレンスは小さなランプで足元を照らしながら、患者に何か変ったことがないかと、静かな病室をいつも見てまわりました。荒くれた兵士たちのフローレンスに対する愛はたいへんなもので、彼らはよく、通りすぎるフローレンスの影に口づけをしたものでした。

  フローレンス・ナイチンゲールのクリミアでの仕事は、戦争終結によって終り、イギリスへ帰国することになりました。
2年前、フローレンスが 「ベクチ号」 で出発したときは、冷笑する人びとの他は見送る人もいませんでした。しかし、フローレンスが帰国するときには、人びとは彼女をその時代のもっとも偉大な女性として、国をあげて大歓迎しました。
フローレンスは 「クリミアの天使」 あるいは 「ランプの貴婦人」 と呼ばれ、行くところどこでも、フローレンスを一目見ようと群衆に歓迎され、フローレンスの名誉をたたえました。
やがて、すばらしいことが起りました。フローレンスは、ビクトリア女王に迎えられ、コンソート王子がデザインした 「クリミア」 と 「慈悲深い心に祝福あれ」 ときざまれたダイヤのブローチを授与されたのです。
フローレンス・ナイチンゲールは、1910年、90歳で亡くなりました。フローレンス・ナイチンゲールの名前は、偉大なる女性のなかでもイギリスだけでなく世界中で、つねに有名です。こんにちの能率的な病院と献身的な看護婦は、フローレンスのおかげによるものです、そして、これらの病院や看護婦たちを通じて、私たちもこの偉大で慈悲深い婦人の業績の恩恵をこうむっているのです。


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