レディバードブックス100点セット
 

 

へンリー8世

 たいていの人は、イングランドの王へンリー八世は6回結婚したこと、さらにエリザベス一世の父親であることを知っています。しかし、ヘンリーには、さらに多くのことがありました。
彼は約500年昔の1491年にグリニッチに生れました、当時のイングランドは現在とは大いに異なっていました。住民は約300万人にすぎず、そのほとんどは農民でした。大都市も大工場もありませんでした、道路はたいへんな悪路で、ひとつの場所から他の場所に行くもっとも速い方法は、馬で行くか、ぶかっこうなスプリングのない馬車で行くかのいずれかでした。
冬になると、道はたいてし、深いぬかるみになったので、人びとはできるだけ旅行を避けたほどでした。
イングランド人は航海にすぐれていましたが、一番大きい船でもわずか1000トンほどでした。コロンブスがアメリカへ航海したスペイン船サンタ・マリア号はわずか100トンでした。もちろん、船はすべて木造の帆船で、航海には数週間かかり、その間、乗組員は陸との連絡はとだえていたのです。
コロンブスが古今を通じて、もっとも歴史的に重大な意義をもつ航海に出発したとき、将来イングランド王へンリー八世になるヘンリー・チューダーは、1歳を数週間過ぎたばかりでした。彼の父へンリー七世は、その冒険に金を寄付するよう求められたのですが、それを断ったのでした。そのため、イングランドは、アメリカの領有権を主張する最初のヨーロッパの国となるチャンスを逸したのでした。

 へンリー王子は成長して、たいへん魅力的で、端麗な若者になりました。彼はあらゆるスポーツに秀でていました。イングランド人の誰よりも、強い長弓を引くことができたと言われました。彼はレスリングや、当時森林や荒野でよく見られた鹿の狩猟でも有名でした。彼はテニスをしたり、馬上やり試合として知られる模擬戦をしたりしましたが、その際、彼は手ごわい相手でした。
へンリーは、ヘンリー七世の次男でした、そして、君主の長男以外の息子が教会の高い地位につくことは珍しいことではありませんでした。当時のイングランドは、もちろんカソリック教の国でした。へンリー王子が枢機卿となり、もしかするとローマ法王になったかもしれないと考えると、不思議な気がします。もしも彼の兄アーサー王子が16歳で死ななかったら、イングランド及びヨーロッパの歴史は違ったものとなっていたでしょう。へンリーは11歳のとき、王位継承者となりました。
彼はそれまで、王子としての教育と、聖職者になるための教育の両方を受けていました。彼はフランス語、イタリア語、スペイン語、ラテン語が話せたし、音楽にも秀でていました。彼はさまざまな楽器を演奏し、歌の作曲もしました、そのうちのいくつかは今日でも歌われています。彼は神学を勉強し、後になって随筆を書きました、ローマ法王はそれに対して 「信仰の守護者」 という称号を彼に与え、それは長い間イングランドの貨幣に残っていました。
へンリーは子どもが好きで、すべての人たちと楽しく、また親しくすることができました。誰もが、彼が王位についたときの真に楽しいイングランドを待ち望みました。

 もし、あなたが、若いヘンリー王子と晩さんをともにするように招待されたなら、差しだされる、さまざまな奇妙な食べものにおどろくことでしょうし、また、フォークをさがしてもみつからないことでしょう。客は水の入ったボールとナプキンを渡されます。これらは、指がねばついたりきたなくなったとき、指を洗って拭くためのものでした。
あなたのベルトにさしているナイフは何にでも使い、食事が終るとそれを上着のへりで拭うのです。スプーンはどうかというと、主人が木製、あるいはしろめ(すずと鉛などの合金)のスプーンを用意してくれることもありますが、出されないときには、それなしですませるのです。宮殿には、銀の皿も金の皿もありましたが、ふつう使われるのはしろめの皿であり、ときどきは厚切りのパンだけです。これは実用的であり、経済的でもありました。それを肉汁やジュースにひたし、食事の終りに食べたのです。そうすれば皿洗いの必要がなくなるのですから。
貴族や裕福な人びとに出される食事はぼう大なものであり、主として、獣肉や鶏肉の料理でした。ジャガイモはありませんでしたが、ヘンリーの庭師たちが、さまざまな種類のキャベツや豆類をこの国に持ちこんでいました。
ローマ人たちはイギリスで多くの種類の果物を栽培していました、しかし、これらの果物はローマの軍隊がいなくなった後は消滅してしまいました。それらは王室付きの庭師によって、ふたたび持ちこまれました。サクランボ、スモモ、杏、グーズベリー、イチゴなどがオランダから持ちこまれて、イギリスの土壌に茂りました。

 へンリー七世の時代のヨーロッパにおける小さな戦争や条約のすべてを説明しようとしたら、それはとても退屈なものになることでしょう。彼はたいへんこうかつな人であって、お金には注意深く、他国と次から次と何の成果もない戦争をして、金を浪費するのをたいへんいやがりました。
その当時、王と女王は絶対君主でした。このことは、彼らが好き勝手に国を治めたことを意味します。革命による以外、彼らの行動をやめさせる方法はありませんでした。このため、多くの奇妙な同盟や条約ができましたが、それに署名した君主たちが同盟や条約を守ることはほとんどありませんでした。これらの同盟は関係する二国の王子と王女の結婚という形をとることもよくありました。若い王女、王子はその問題に発言権はなかったのです。
当時のヨーロッパにおけるもっとも強大な三国は、フランスとスペインでした。それで、ヘンリー七世がスペインと条約を結んだとき、彼の長男アーサー王子が政略結婚に巻きこまれました。スペインの王女は、アラゴンのキャサリンでした、そして、アーサーが15歳のとき、彼らは結婚しました、キャサリンはほぼ1歳年長でした。
運が悪いことに、アーサーは結婚の翌年死に、ヘンリー王子が王位継承者になりました。アーサーに死に別れたキャサリンは、彼の父へンリー七世が1509年に死ぬと、へンリーと結婚しました。これは教会の規則に違反するものであり、イングランド国民の望みに反するものでした、彼らはスペイン人をひどくきらっていたのです。ローマ法王は、その結婚に許可を与え、若い夫婦の将来の幸福に祝福を与えるようにと説得されました。

 へンリーが王になったとき、彼の性格は奇妙な二面性を持っていました。彼は2つの人格の結合体のようであると言われていました。1つは宴会やショーを好み、何時間でも子どもたちと楽しく遊ぶことができる陽気な君主としての彼であり、もう1つは、休むことを知らない精力と非常な残忍性を持つ彼でした。彼の助言者は不運にも彼のどちらの面──すなわち、スポーツと音楽の保護者としての面と、どんな犠牲をはらっても自分のやりたいようにしようと決意しているがんこな政治家としての面──が出てくるのか、まったくわかりませんでした。彼らにとって生活は、たいへんむずかしいものでした。
複雑なヨーロッパ事情のなかで、冷酷で大胆な君主のみが事の達成を望み得た時代にあって、ヘンリーは多くの点においてイングランドにふさわしい王でした。他の点においては、彼は残酷、非情の悪王であり、悪人でした。
彼は主な相談相手となる人間を選びましたが、その選択は、バラ戦争やヘンリー七世をイングランドの王にしたボスワースの戦いの際、その多くが死んだ、古くからの貴族の生き残りを信用するつもりがないことを明確に示すものでした。もしも彼らが反対を唱えれば、彼はそういう残余の貴族をかたづける、てっとり早いやり方をとりました。
へンリーの主要な、そして、もっとも賢明な助言者は、ウルジー枢機卿でしたが、彼は人間の食用には適さない肉を売ったかどで有罪となった肉屋の息子でした。もう1人は、無名の弁護士トーマス・クロムウェルでした。
彼らは忠実に主に仕えましたが、そのほうびとして彼らが得たものは、王の利己的な忘恩の行為でした。

 へンリーは大胆であり、勇敢であると同時に疲れを知りませんでした。イングランドの荒野や大森林で1日狩猟した際など、彼は8頭から10頭の馬を乗りつぶすことがよくあり、従臣はとても彼について行くことができませんでした。
彼らが彼をみつけると、彼はたいてい近くで馬に草を食べさせながら、みすぼらしい小屋がいくつか集まった近くの踏み板に腰かけているのでした。へンリーは、ごく自然に、当惑することもなく、農奴の一団と話したり、笑ったりしているのでした。その結果、彼は貴族たちよりもはるかによく民衆を理解し、彼らの考えや不平不満を知っていたのです。彼が臣民たちに率直なハル王として知られていたのは、おどろくべきことではありません。
もうひとつの、そしてより重要な結果は、臣民が彼を愛し、信頼したということです。彼のどっしりした体と、すべての種類のスポーツが得意だったことは、その陽気な笑い声と友好的な態度と相まって、武装した衛兵よりも彼の身の安全を保証するものでした。彼はしばしば1人でどこにでも行きました、馬に乗って森の中の曲がりくねった小道や、でこぼこの田舎道をかけたのでした。畑で働いている農奴たちは、その燃えるような赤髪の彼をみとめ、彼こそ自分たちの王にふさわしい王だと感じたのでした。
へンリーは、アルフレッド王と同じく、イングランドが安全なのは海に囲まれているからだということがわかっていました。唯一の危険な国境はイングランドとスコットランドの国境だけでした。彼自身がウェールズ人だったので、彼はウェールズとの紛争が起るとは思っていませんでした。
スコットランド人に関してはちがっていました。彼らは頑健で、好戦的な人びとでした。

 へンリーの父親は、すでにスコットランド人を警戒する対策を講じていました。彼は、娘のマーガレットをスコットランドの王ジェイムズ四世と結婚させました、それは後になって大英帝国の全歴史に影響を及ぼした結婚でした。しかし、その結婚もスコットランド人のイングランド侵攻を妨げることができなかったのです、その結果、フロッドン平原の戦いが起り、ジェイムズ四世は戦死しました。へンリーはフロッドン平原における戦いには参加しませんでした。彼はフランスで、たいして成果のあがらない戦争をしていたのでした。
へンリーはあらゆる機会をとらえて船乗りと話し、港を訪れました。船が建造されていて、そのなかの1隻、グレート・ハリー号としても知られているヘンリ・グレース・ア・デュー号はすでに1500トンもありました。それは船としては最大で、7つの甲板を持ち、その銃砲装備はその時代のどの船にもまさっていました。それにもかかわらず、ヘンリーの娘エリザベスの統治時代に、イングランド人がスペインの無敵艦隊を打ち負かしたとき、勝利をおさめたのは、海軍の艦船の大きさのためというよりはむしろ、イングランドの船乗りの操船術のためでした。
へンリーは建造中の船に深い個人的興味をもっていました。彼は専門家よりも多くのことを知っているとつねに信じていました、そして、彼の言葉が正しいことがたびたびあったので、専門家たちは熱心に仕事をすることになったのです。この若く活力ある王の下では怠ける者はいませんでした。新しい船の船足が遅いと、彼はその理由を追求しました。そして、それが不注意な造船工の過失によるものだと判明すると、ヘンリーは、その男が二度と過失をしないように気をつけました。

 へンリーは1509年に王位につきました。当時は進歩と発見の時代であり、海図の作製や航海術が、ポルトガルのへンリー公の努力のおかげで進歩をとげていました。印刷の新しい技術がキャクストンによってイングランドに持ちこまれ、戦争において火薬の実際的使用法が発見されています。
リチャード三世が1485年にボスワースの戦いで戦死した後、イングランドでの生活は、徐々にではありますが、確実に変化しはじめました。へンリー八世は、新しい発明とそれが与えてくれた好機からうまく利益が得られる時代に、その統治を始めたのです。
へンリーの父親は、お金を浪費しないように細心の注意を払っていました、そしてお金を貯えることがじょうずでした。それで、18歳で王位についたとき、若いヘンリーは、まったく思いのままに使える莫大な大財産を持っていたのです。彼は、自分の衣服、宝石から、野外劇とか宴会とかに至る、あらゆる種類のぜいたくが好きで、注意深い父王がぞっとしたと思われるやり方で、お金を浪費しはじめました。
「金の布の野原」 として知られるようになった場所で、彼はあらゆる機会をとらえて富を誇示しました。それはフランス王に印象づけるためにへンリーによってショウとして上演されました。色彩に富んだヘンリーの上着、イングランドの貴族や政治家の輝くばかりに飾られたテント、大宴会、中世風の馬上やり試合の劇などは、たしかに壮観そのもので相手に印象づけるという目的は果しましたが、真の目的は果せませんでした。イングランド王へンリーと、フランス王フランシスが以前より友好的になることはなかったのです。

 有名なウルジー枢機卿は、イングランドに影響を与えはじめていた、さまざまな変化に大きな役割を果しました。彼はヘンリーより20歳年上で、おもしろく機知に富んだ話相手であり、こうかつで無節操な助言者でした。
彼は鉄のような体つきをしていて、若い王と一晩じゅう飲みあかして、そのまま24時間もの間、激しく、また、めざましい仕事を公務の場でしながら、疲労の色や体力のおとろえを見せませんでした。彼はまさにヘンリーに強い印象を与える種類の人物でした。
ウルジーは、王のちょう愛をまちがいなく自分の利益になるように利用しました。当時、人びとが栄華を求める方法は2つありました。1つは教会の中で高い位置にのぼることであり、それは王にはまったく金がかからないことでした、もう1つは、一財産作る機会のある徴税官の位置につくか、さらにその機会が多い大法官になることでした。
ウルジーは両方の途をとったのです。彼は司教となり、その後すぐにヨークの大司教になりました。へンリーが王位について6年たつと、彼はカソリック教会の枢機卿という高い名誉ある地位につきました。
たいていの聖職者なら、これは十分な栄華であったことでしょう、しかし、ウルジー枢機卿はそれでも満足しませんでした。彼は教会を司るだけで満足するにはあまりにも有能であり、勤勉すぎました。同じ年に、彼はイングランドの大法官に就任したのです。王にこそなれなかったものの、この悪党の肉屋の息子は、それ以上ない最高の位についたのです。彼はハンプトン・コートを含む壮大な家をいくつか建て、ハンプトン・コートで、王をしのぐ豪勢な暮しをし、召使が1000人いたといわれています。古くからの貴族が彼を憎んだのはおどろくにあたりません。

 用心深い父王が財産を残したにもかかわらず、ヘンリーはフランスとの戦争やその浪費癖のために、さらに多くの金を必要としました。王になってから1年もたないうちに、彼はエムプソンとダッドレイという、ヘンリー七世の下で税金を取り立てて人びとに憎まれていた、2人の男を処刑して人気を得ました。今や彼は、彼らと同じことをしなければならなくなりました。ウルジーは新税をあみ出して彼を助けました、しかし、新税によって多くの金が入ったものの、そのすべてが王のふところに入ったわけではありませんでした。ウルジーは金のかかる家臣だったのです。
やがて、ヘンリーに別の問題が起りました。彼は王位を継ぐ男子がほしかったのですが、娘のメアリーしかいませんでした。そこで彼はキャサリン王妃より若い女性と結婚しようとしたのです、それには彼女と離婚せねばなりません、離婚はカソリック教会の最高位者である、ローマ法王の承認がなければできませんでした。
難点は、法王がすでに心ならずも、ヘンリーとアーサー王子の未亡人との結婚を特別に許可していたことでした。離婚させてほしいとの要求をもってローマ法王庁へ出向くことは、法王がまちがっていたと言うに等しいことでした。イングランドはカソリック教国であり、カソリック教徒は誰でも、法王が誤りを犯すことはないと信じていました。彼にその決定を変えるよう要求するのは、とうてい無理でした。
当時、法王はカソリック教会の長であるばかりでなく、イタリアの一部の支配者でもありました。そのため、彼は非常に困難な立場にありました。
アラゴンのキャサリンはスペイン王の叔母でした、スペイン王は怒って、イタリアに軍隊を派遣してローマを占領しました。法王は、離婚に法王の同意を得るべく、ヘンリーによってつかわされていたウルジーの言葉に耳を傾けるのを拒絶する以外、何もできませんでした。

 へンリーは激怒し、彼の怒りは主としてウルジー枢機卿に向けられました。ウルジーの罪ではなかったのですが、彼はたいした困難はないだろうと、自信をもってヘンリーに話していたのでした。彼はロンドンにもどって、法王が同意する望みはないと伝えなければならなりませんでした。
ローマ法王はスペイン王の手に落ちた囚人となっていたのです。
へンリーは、ロンドンの富裕な商人の娘、アン・ブーリンという名の若い侍女と結婚しようと決心していました。彼女は十分な教育を受け──1部はフランスで──音楽に堪能でした。しかし、彼女は野心家で節操のない女性でした。彼女はヘンリーの注意をひいたことを悟ると、どんなことをしても王妃になろうと決意したのです。もしも王妃になる代価が自分の首であることを知っていたら、たぶん彼女もちゅうちょしたことでしょう。
この結婚はアンにとっても、重大なことでしたが、イングランドにとっての重要性は、はかりしれないほど、はるかに重要なものでした。それは、イングランドのもっとも偉大な政治家の1人である、ウルジーの失脚をもたらしたばかりでなく、イングランド国民の宗教生活を変えたのでした。
キャサリンの離婚についてのローマ法王の、そしてスペインとの交渉は、6年間も長びきました。ついにヘンリーは、アンとの結婚の方が法王の祝福よりも重要であると決意して、彼自身がイングランド国教会の長になると宣言したのです。今や、キャサリンとの離婚は王の意志次第でした。彼はすぐさまアン・ブーリンと結婚しました。ウルジーは、すでにヨークの大司教の職以外のすべての公職から退けられていました。後年彼は虚偽の嫌疑で裁判にかけられるために、ロンドンに召喚されましたが、その旅の途中、レスターで死にました。

 へンリーがアンと結婚したことと、ウルジーが不興をこうむったことは、今日の我々には重要でないように見えますが、アンとへンリーの間に生れた娘がエリザベス一世となり、イングランドがプロテスタントの国になったことを思い出せば、その重要性がはっきりとわかります。
へンリーがアン・ブーリンと結婚したいと望んだことだけが、イングランドが公式にカソリック教国であることをやめた唯一の理由ではありませんでした。へンリーには金が必要だったのです。彼はその問題に対する即答は、もはやローマ法王の保護の下にない修道院の富を手中にすることだと考えました。税金は評判がよくないけれど、修道院の多くはさらに人気がないことをヘンリーは知っていたのです。
昔は、修道院はたいへん役に立っていました。修道院は病人のための病院であり、旅人のための宿屋でもありました。また貧乏人を助け、無学な者を教育しました。悲しんでいる者を慰め、罪のない者を守りました。しかし、ヘンリーが王位についたころには、学校や大学があり、宿屋も病院もあり、地方判事も法廷もできていました。修道院はたいへん裕福になり、修道士は太って怠惰になりました。修道院が閉鎖されるのを見て悲しむ者は、ほとんどいなかったのです。
修道院を解散させたことは、ヘンリーにとって、別の面でも都合のよいことでした。長年のうちに金持が彼らに土地を残し、多くの修道院はかなり大きな領地を持つようになっていました。それらの土地は今や王に没収され、王の意のままにほうびとして人びとに与えられました。今日のイングランドには、かつて修道院が所有し耕作していた土地を何代にもわたって相続してきた家族がいます。ローマ法王はヘンリーを破門し、教会から除名しました。へンリーは法王を無視して、まったく以前と同じようにしていました。

 その間、ヘンリーはぬかりありませんでした。彼は、教会を治める新しい法律を聖職者が通すのを、自分が承認すればという条件の下に許可しました。しかしながら、それらの法律は国家の法律になるはずはなく、それらを国の法律であると信じて、それに基づいて、行動した人たちには重大な困難に直面することになります。司教の選出は、以前は法王の権限でしたが、大会堂の僧会委員が自由に選出できるようになりました。彼らは、司教を選ぶ許可証を与えられましたが、それには王からの手紙が添えられていて、誰を選ぶかが書かれていました。
新しく選出された司教の最初の1年間の収入は、その司教にではなく、ローマ法王に支払われることが習慣でした。これらの支払は何千ポンドにのぼったので、ヘンリーは、以前法王に支払われたものは、すべて彼自身の収入になるべきだと主張しました。どんな財源も、ヘンリーの目から逃れることは、ほとんどありませんでした。
しかし、増税が必要となり、イングランド北部が反逆しました。へンリーの性格のなかの無慈悲な凶暴性が、このとき姿を見せはじめたのです。
国じゅうのあちこちに、あえて王に反逆した人たちの死体をつるした、さらし台が散在したと言われています。
反逆はたいへん残酷に鎮圧されました、しかし、反逆の主な原因はそのまま残りました。それは、今や国務大臣であり、王のお気に入りの助言者であるトーマス・クロムウェルでした。クロムウェルの密偵は至るところにいて、彼は、王の命をおびやかす陰謀──それがほんとうであれ、うそであれ──を毎日報告することによって、ヘンリーの寵をつなぎとめていたのです。

 トーマス・クロムウェル (100年以上も後のオリーバー・クロムウェルと混同してはなりません) は、ウルジーよりもさらに立身の見込のない出身でした。彼は若いころ、イングランドを出るのを余儀なくされ、18歳になるまでイタリアとフランスにいました。彼の父は鍛冶屋だったようですが、彼がその後を継いだかどうかはわかっていません、また彼がどのような教育を受けたかも不明です。我々が知っているのは、彼が無節操ではありますが、生れつき非常に利口であったということだけでした。
彼はウルジーが勢力を持ちはじめたころ、イングランドにもどってきました。フローレンスで、ヨーロッパ屈指の金貸から学んだ職業である金貸として商売した後、彼はウルジー枢機卿に仕えました。やがて彼は修道院の状態について報告するようになり、彼らの抑圧に熱意を示して、王の寵を得るようになりました。法王と論争してこれ以上時間をむだにするのをやめて、ヘンリー目らがイングランド国教会の長になると宣言すべきだとクロムウェルが進言したとき、王はいっそう彼に感謝しました。
ウルジーが不興をこうむったとき、クロムウェルだけは相変らず彼に忠実でした、このことは彼の名誉となりました。彼はウルジーから得るものは何もありませんでしたが、没落した枢機卿から得た恩は忘れなかったのです。
ウルジーがレスターで死んだとき、クロムウェル以外の人はみんなとっくに彼を見捨てていました。ウルジーが残せるのは助言だけでした。もしもクロムウェルが彼の助言に従っていたら、タワー・ヒルで斬首されることはなかったでしょう。ウルジーはぜいたくな暮しをしましたが、クロムウェルの生活は簡素でした、しかし、彼は前の主人よりもさらに強い力をもつようになりました。

 へンリーはアン・ブーリンと結婚し、1人の娘が生れたとき、彼の良心は都合よく彼を苦しめはじめました。彼はキャサリンと離婚してアン・ブーリンと結婚したのは誤りであったと、突然考えはじめました。真相は彼女にあきてしまって、ジェイン・シーモアという名の、どちらかというと愚かな若い女性と結婚したかったのです。そんなに早くまた離婚するとなると、世間がうるさいだろうと思って、彼はかわいそうにアン・ブーリンを死刑に処したのです、彼の残忍な性格が明らかに示されたわけです。
アン・ブーリンは3年間、ヘンリーの王妃でしたが、ジェイン・シーモアが王妃であったのはわずか1年間でした、ヘンリーがあきてしまわないうちに死んだのは、たぶん幸運だといえるでしょう。彼女は魅力的でしたが愚かで、アン・ブーリンの機知のかけらもありませんでした。しかしながら、彼女はへンリーが待ち望んでいた男子を産みました、これが後のエドワード六世です。
へンリーは次に聖書の英訳を印刷させ、すべての教会に1冊ずつ展示させて、教会の長としての自分の地位を強化しました。印刷術がキャクストンによってイングランドに導入されてから60年たっていましたが、これは大事業でした。それにもかかわらず、セント・ポール大会堂から小さな教区教会に至るまで、礼拝の場所ではどこででも、人びとはそれを読み、あるいは読みきかされました。
以前、新約聖書の内容は一般大衆には手の届かないものでした。今や彼らは、貧乏人や困っている人びとに対するキリストの懸念について、読んだり聞いたりできるようになりました。貧しくもなく困ってもいない人びと──貴族たち──はその大部分が修道院から没収した土地を与えられていたので、ヘンリーを支持しました。彼らには.それを返すつもりはなかったのです。

 へンリーのいくつかの結婚のひとつであるアン・ブーリンとの結婚は、ウルジーの失脚をもたらしました。もう1つの結婚──アン・グリーヴスとの結婚で、クロムウェルはウルジーと同じ羽目に会うことになるのです。
ヨーロッパにおける強大なカソリック教国、スペインとフランスは、友好国となり同盟を結んでいました。クロムウェルは、彼らがいっしょになってイングランドを攻撃してくるのを恐れました、そして彼は、ヨーロッパに少なくとも1つのプロテスタントの友好国を作りたいと思いました。
当時へンリーには妻がいなかったので、クロムウェルは、ヘンリーの妻にちょうどよいプロテスタントの王女をさがしました。そして、クリーヴズのアンを発見したのです。
彼は、有名な画家ホルバインが描いた彼女の肖像画をへンリーに送る手はずを整えました。この肖像画はクリーヴズのアンをたいへん美しく描いていたので、ヘンリーは彼女に会うのを待ち望みました。しかし、彼はまずアンをひそかに見たいと思い、変装してロチェスターのクラウン・インにおもむきました。彼女が数時間そこにいる予定だったのです。彼女を見ると、クロムウェルに見せられた肖像画とあまりにもちがうので、ヘンリーはかんかんに怒りました。
へンリーは怒ってクロムウェルにくってかかりました、彼がどんなことを言ったか、我々にも想像がつきます。彼はかわいそうにもアンを 「フランダースの大きな雌馬」 にたとえたのです、そして、彼女と結婚しなければならなかったものの、別居の手はずがすぐ整えられました。アンは幸運でした。王妃という称号を使わないという条件付きで、領地と年金を与えられたのです。彼女はつづれ織りをしたり、大いに食べまくったりして怠惰な生活を送る以外、何かをしようなどという望みはありませんでしたから、これは双方に都合のいい取り決めでした。へンリーは今や5人目の妻、キャサリン・ハワードと結婚する自由を得、そしてその年、彼は結婚しました。もし彼女が、他の4人の妻に何が起ったのかをほんとうに知っていたのなら、キャサリン・ハワードは勇敢であったか愚かであったかのいずれかでしょう。

 このとき、ヘンリーはすでに50歳近く、若々しい容貌と魅力を失っていました。彼は食べ過ぎのため非常に太っており、頭ははげていて、そして絶えず痛みに苦しんでいました。このことは彼の機嫌をますます悪くしました、彼に近づく人は誰でも恐れおののきました。彼に反対することは死刑につながることでした。
キャサリン・ハワードは甘やかされた、責任感にかけた女性でした。彼女は、はれんちなうわさにいつでも喜んで耳をかす、野獣のような男と結婚しながら、しっと深い敵に囲まれている危険性に気づきませんでした。しかしながら、ヘンリーは春には少し体調がよくなり、イングランド北部への豪勢な旅が計画されました。天候は悪く、道路はところどころ通行不可能で、何週間かが無為に過ぎました。目的地に着くのが遅れても、キャサリンは心配しませんでした。彼女は愚かにも、北への旅の途中ひそかに昔の恋人に会う手はずを整えていたのです。
キャサリンが、ヘンリーとの結婚を望んだかどうかは疑問です。貴族の若い娘が政治というゲームに参加するよう強制されることがしばしばあったのです。キャサリンはハワード家の人でした、そして、ノーフォーク公を含むその一家は、王に影響を与えるために彼女を使ったのです。彼女はそれには失敗しました、ヘンリーは彼女の不実を知ったとき、彼女を死刑に処してしまいました。
このころには彼は年老い、疲れ果てて、健康面でも精神面でも衰弱していました。政治的配慮から、ふたたび結婚するべきだと進言されたとき、彼は怒ってそれを拒否しました。しかし、無慈悲で高慢で絶え間のない痛みに苦しんでいたヘンリーも、伴侶が必要だと感じていたのです。彼の最後の、そして、6番目の妻、キャサリン・パーは、彼が必要としていた慰めをもたらし、よく世話をしてくれました。

 へンリー八世のことを、絶えず結婚しては、妻を次々と離婚したり、首をはねたりするのに忙しい男だと思っている人びとも多くいます。これは、悪い人間というよりは、たぶん不運な人間であった王をまったく曲解するものです。彼がある点において悪い人間であったのはたしかですが、彼は信仰心が厚く、自分はイングランドのために最善をつくしているのだとつねに信じていました。
トーマス・クロムウェルに関しては、彼の処遇は不当でした、クロムウェルは、不正のはびこったあの時代では、たいていの人よりは正直だったのです。クロムウェルはヘンリーによって宗務代官、すなわち、教会長の次席補佐にあげられていました。文官としての多くの名誉が彼に与えられていました。彼はクロムウェル男爵に叙せられ、ガーター勲爵位を授けられました、彼が王とクリーヴスのアンとの結婚の手はずを決めたのは、宮内長官のときでした。そうすることによって、王の歓心を買おうとしたのではなく、イングランドのためを思ったのでしたが、それは彼の誤りでした。
しかし、彼がたちまち失脚したのは、この誤りのためではありませんでした。彼は同じ年にエセックス伯爵に叙せられました。彼がついに斬首されたのは、彼を憎んでいるノーフォーク公によって、反逆罪のかどで告訴されたからでした。彼は公正な裁判にかけられませんでした。当時は、反逆罪の告訴だけで十分だったのです。
歴史家のなかには、クロムウェルは宗教的なことには何の関心ももたない悪漢だったとする人たちもいます。これは、彼の主君である王の政策を押し進めようとしたにすぎない男にとって、不当な評価です。

 イングランドの最初の印刷家キャクストンは、ヘンリー八世が生れた年に死にました。彼の印刷機は、その約15年前にウェストミンスターにすえつけられました。へンリーが王になったときには、何百もの本が印刷されていました。
キャクストン以前の時代には、ある本を相当部数も作ろうという決定が下されると、1人の修道士がそれを大声で読み、20人から30人の修道士がそれを書きとったのでした。修道士のなかには耳が聞えない人がいたかもしれませんし、彼らは自分が聞いたと思うことを書きました。また、綴りが書けないのもいたし、怠け者も不注意な者もいました。従ってどの2部をとっても同じものはなく、なかにはとてもひどいものもありました。
印刷術はこれらすべてを変えました。100冊あるいは1000冊もの本でさえも、2、3人で作ることができたのです。1冊1冊はまったく同じであり、不注意な、また無知な写字による誤りはありませんでした。修道士たちは、彼らの快適で平穏な仕事がおびやかされるのを知って、印刷業者や印刷機を憎みました。
印刷業者に対するさらに重大な脅威は、思想が普及することによって国家の安全がおびやかされると感じる人びとがいたことでした。敬けんな教会関係者のなかには、遅くならないうちに印刷機を破壊せよと要求する人びとが多くいました。「満足することがこの世から消えた。人びとはこの印刷機をよい方には使わず、悪用するだろう」 と、彼らは言いました。彼らは、印刷された言葉は国家にとって危険であるばかりでなく、当時はカソリック教国であったイングランドの公的教義とは異なった邪教の普及に使われ得ると主張したのです。

 ウィリアム・キャクストンによって英語で印刷された本のページをあなた方が開くとしたら、それを読むのは困難でしょう。文字は今日ゴシック体と呼ばれるもので、単語のなかには現在の英語にはなくなっているものもたくさんあります。
本が容易に手に入るようになると、一般大衆のなかにも読めるようになった人びとがでてきました。以前は、すべての本が苦労して手で書き写されていたために、数は少なく、また高価でした。今や、読むことができる人びとには、ずっと多くの本があらわれたのです。これは学芸復興として知られるもののはじまりでした。
印刷術はイングランドのみならず、世界をも変えました。それは無知な人びとに新しい思想をもたらしました。一般の男女は、神が定めたと彼らが考えていた生き方──領主は城に、農民は小屋に──という生き方に、多かれ少なかれ満足していました。しかし今や彼らはそれが正しいかどうか疑問に思いはじめたのです。
イングランドに印刷術がはいってくる前にも 「農夫のピアズ」 のような詩や、「羊飼いの劇」 などの粗野な劇がありました。しかし、詩は手書で写され、劇はたいてい道徳的教訓であったり、聖書からのものでした。それらの劇は聖職者や商業組合によって上演されました。
この時代にはもちろん劇場はありませんでした。劇は町から町へと馬で引いていく大きな荷馬車の上で演じられ、単なる馬鹿さわぎのどたばた劇であることもありました。役者はしばしば迫害され、さらし台にすわらされることもありました。しかし、彼らは人びとを考えさせました。考えはじめると、人びとは、なぜ一部の人びとに豊富な食べものと温かいりっぱな服をもつ金持である権利があるのかと、疑問に思いはじめました。これはこの国の大きな不満の始まりでした。

 写真は、ヘンリー八世の時代から数百年の後に、ようやく発明されました。へンリーのあごひげのほんとうの色を示すカラー写真ができるだろうとは想像もつかないことでした。
しかし、いつの時代にも、湖や風景、建物や船を描く画家はいました。初期の文明は、ときには絵で、また、ときには色のついた彫刻やモザイクで、偉人の肖像を残しています。我々はこれらから、何百年も、いや何千年も昔の人びとがどんな様子をしていたかについて、ある観念を得ることができます。
召使、従者、御者、従僕を連れて自家用馬車で外国旅行をした金持たちは、カメラがなかったので、つねに絵描きを伴いました。彼は生きているカメラで、その仕事は、金持の貴族の注意をとくにひきつけたものを何でも記録することでした。ヴェニスのため息橋、ローマのコロシアムなどが当時の旅の画家たちによって描かれました、ちょうど今日の熱心なアメリカ人観光客が写真でとるように。
これらの画家がつねに腕のいい画家であるとはかぎりませんでしたが、へンリーの時代には、ホルベインとかティティアンといった、すぐれた肖像画家がいました。キャサリン・ハワードとグリーヴズのアンの小さな肖像画が現存しています、どちらもさして際立ったものではありません。国立肖像画美術館にあるアン・ブーリンの肖像は美しくもなければ知的でもありません。キャサリン・パーの肖像は、やや用心深い顔つきで、母のようなやさしい表情を浮かべています。たぶんへンリーの妻として、彼女は用心深さが必要だったことでしょう。

 へンリーの時代の男の肖像画は、女のものよりもすぐれています。なんらかの理由で、女たちは仮面のような顔つきで表情にとぼしく、みな同じように見えます。実際、男の多くはあごひげを生やしていたので、描くことがやさしかったのでしょう。画家があごひげの形と色を正確に描けば、生き写しに描くことも半ばできあがったようなものです。
ウェストミンスターのセント・ジェイムズ宮殿内に、ホルバインの手になるヘンリー八世のすばらしい肖像画があります。それはまさしくヘンリー八世の顔つきをほうふつさせるものです。ホルバインは偉大な肖像画家で、彼は実物を見て描きました。
ウルジーとクロムウェルの肖像画は、2枚とも国立肖像画美術館にありますが、2人の実際の姿そのままに、厳しく断固とした顔つきをしています。2人とも、あごひげを生やしていませんが、画家は極端なこうかつさと結びついた冷酷な野心の表れをとらえています。そのころは、あざむくことが政治家の仕事である時代でした。
歴史のある時期には、あごひげは男らしい英雄のしるしと考えられていました。また、他の時期には、乞食と聖職者のしるしになったこともありました。実は、庶民的英雄とか君主自身の気まぐれからはじまる流行に従って、長くなったり短くなったりしました。チューダー王朝の始まりとなったヘンリーの父親は、ひげをきれいにそっていましたが、長髪でした。
へンリー自身は赤毛のあごひげを生やしていました。妻の願いで彼はそれをきれいに剃り落しましたが、「金の布の野原」 へ行く前にまた生やしました。この記念すべき折りに、あごひげはフランス人にヘンリーのことを大いに印象づけました。

 我々の大部分は、たいして法律をおかすことなく生活を送っていますが、法律をおかす人びとは、その土地の治安判事の前に出頭させられる危険をおかしているのです。軽犯罪に対しては懲戒か罰金が課せられるでしょうが、さらに重い罪の場合には上級審に送られて、裁判官の前に引き出されます。
イングランドにも、もちろんつねに法律らしきものはありました。はじめそれは雑なもので、金持に味方して貧乏人を責めるばかりのものでした。
時がたつにつれて、法律は合理的なものになってきました。ジョン王の時代までに、マグナ・カルタは、人びとは同じ階級の者によって裁かれるべきだと定めました。同じ階級というのは貴賎のことではなく、生き方が同じような人びとということでした。
まさに自由の基盤であるこの賢明な法律は、かつてはたいへん悪用されました。法を逃れる方法があり、聡明な法律家たちは、たちまちそれを発見しました。貴族は勢力があれば、ただ法律を無視しました。チューダー王朝の最初の2人の王、ヘンリー八世とその父の下では、土地の治安判事の権限が強化され、上級審の乱れが正されました。
しかし、正規の警察組織がなかった時代には、あらゆる種類の強盗や泥棒がいました。彼らが要路にある人びとに賄賂を送ることができれば、彼らは合法的に法の裁きを受けないですんだのでした。さて今や、生命、財産は法廷及び巡回裁判の判事(国じゅうのすべての場所を順次訪れる判事はこう呼ばれていました) の新しい力によって、より安全となりました。

  イングランドの王のなかで、ヘンリー八世ほどほめたたえられたり、憎まれたりした王はいません。歴史家のなかには、彼のことを喜んで貧乏人を助け、あらゆる階層の人びとと仲よくした、りっぱな王だと考える人びともいます。彼は教養があり、思慮分別があり、音楽と詩を好み、機知に富み、知性的で、よい話し相手であったと彼らは言うのです。
また、ヘンリーを、ちゃんとした人びとと交わるには、ふさわしくない野蛮な男だと考え、死ぬずっと前に狂気として幽閉するか投獄すべきだったとする歴史家もいます。
その意見は両方とも、ある程度まで正しいのです。へンリーの業績のなかには、国民が今日でもそのおかげを蒙っていることが多くあります。
彼と法王の争いがなかったならば、この国は悲惨な内戦によって荒廃に帰したかもしれません。たしかに動機がよくないこともありましたが、彼は熱烈な愛国心の強いイングランド人でした。
若い王として、彼はあらゆる利点をそなえていました。彼は端麗で、あらゆる階層に人気があり、すぐれたスポーツマンであり、教養があり、誰にも親切でした。もしも彼が、最初の妻アラゴンのキャサリンとともに家庭人として落ち着き、自分と同じように端麗で知的で運動にすぐれた家族を持ったなら、おそらくイングランド史上最良の王の1人として人びとに記憶されたことでしょう。しかし運命は彼に味方しませんでした。彼は気が短いうえに絶対的な権力を持ったのでした。それは致命的な結びつきでした。権力は悪に向かいがちなものです、そして、権力が強ければ強いほど悪も大きくなる、とはまさに至言です。へンリー八世は、この言葉が真実であることを示す実例でした。


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