レディバードブックス100点セット
 

 

マルコポーロ

 マルコ・ポーロは、1254年にベニスに生まれました。ベニスは大きな富と権力を持った華麗な都市で、住むにはすばらしいところでした。この町は数多くの小島の上に建てられていましたので、普通の都市のような通りはなく、運河を持っていたのです。人びとが友人を訪問するときには、たいていボートで行かなければなりませんでした。
ベニスは大海路網の中心で、非常に重要な都市でした、そしてベニスの商人は、既知の世界のもっとも遠い土地とも取引しました。彼らは絹、香味料、じゅうたん、宝石のようなぜいたく品を東洋から買い入れ、これらのぜいたく品を積んだ船隊を、遠くイングランドのスタウァブリッジで開かれる取引市に送りました。大きな港にはどこでも、ベニス人所有の埠頭がありました。
700年前には、世界を旅することは今日よりはるかに危険であり困難でした。事実、多くの人びとは地球が平らであるとまだ信じていたのです。
ヨーロッパ人たちは地球の反対側に住んでいる人びとについてほとんど、もしくは、何も知りませんでした。それら遠い土地から来るものを買ったり、使ったりしてはいたのですが。

 知識がとぼしかった主な理由は、情報が伝わるには、ばく大な距離を進んでこなくてはならなかったことでした。商人たちはリレーをするように働かなければならなかったのです。ひとつのグループが別のグループに会って、自分たちの商品を手渡したのでした。シルク・ロード(アジアを越えて中国の首都に至る通商路はこう呼ばれています) は7000マイル(1万1265km) の長さがありました。そのため、旅のなかで、商品は何人もの手を通されたのです。旅の最後の短い段階の商品を買った船乗りたちは、絹や宝石の元来の出どころについては何も知りませんでした。
絹や香味料のようなぜいたく品のもうけは莫大なものだったので、商人のなかにはそれらを手に入れるために、長い困難な旅に喜んで出ようとする人たちもいました。マルコ・ポーロは、このような冒険好きな商人ニコロ・ポーロの息子でした。マルコが15歳のとき、彼の父と叔父のマフェオは何年も続いた商用の旅から帰国しました。
彼らは、はるばる中国の首都ペキンに行き、そこで蒙古の皇帝クーブラ・カン(ときには大汗とも呼ばれました) に、親切にもてなされました。彼は西欧の生活様式について、ポーロたちが語ったすべてのことに興味を示しました。

 とりわけ、キリスト教の観念が大汗の興味をひきました。彼は2人のべニス人に、法王への手紙を持ってイタリアにもどるように頼みました。
その手紙で、彼は法王にキリスト教の修道士を何人か送ってくれるように頼んだのでした。彼はポーロ兄弟にも修道士といっしょに彼の宮廷にもどってくるようにも頼んだのでした。
彼はまた、エルサレムの聖墓教会の中の有名なランプから油を持ってくることを彼らに頼みました。このランプは消えることなく、1000年もの間燃え続けているものと考えられていました。
しかし、ニコロ・ポーロとマフェオ・ポーロがやっとベニスにもどってきたとき、法王は死去していました。カンの頼みは新しい法王が選ばれるまで待たなければなりませんでした。
2年過ぎましたが、まだ新しい法王はいませんでした。待ちくたびれて、ポーロ兄弟はペキンへの長く危険な旅にまた出発しようと決心しました。
マルコは17歳になっていましたので、彼らはマルコも連れていくことに決めました。

 マルコ・ポーロが父と叔父といっしょにベニスの港のなかの小さな船に乗ったのは、1271年のことでした。彼の旅は3年半にわたって続くことになり、この旅で、マルコは古今を通じてもっとも有名な旅行家の1人になるのでした。
彼らはベニスを出発してアドリア海を南下し、地中海を進んで、パレスチナのエルサレムの近くにあったアクラの港に着きました。ここで彼らはデオボールドという名の神父に会いました。
ニコロとマフェオはヴェニスへ帰国の途中テオボールドに会っていて、そのとき、彼は新しい法王が選出されるまで、カンの要請については何もできないと彼らに話したのでした。ふたたび今度会ったときも、彼らはもう一度その問題について話し合いましたが、テオボールドは前以上の助けを与えることはできませんでした。
彼らはエルサレムのすぐ近くにいたので、少なくともひとつの頼みにこたえることができました──すなわち聖なるランプの油を持ってきてほしいとの頼みにこたえることができたのです。彼らは油を取りにいきました、そしてアクラの港へもどりましたが、新法王の報はまだありませんでした。
しかし、テオボールドは、クープラ・カンの頼みにこたえるために彼らが最善をつくしたことを証明する手紙を書いてくれました。
今やニコロ、マフェオ、マルコはアクラを出て、アヤスに向かいました。アヤスは通常、東方へ旅する商人たちの出発地でした。

 彼らがアヤスに着いたとき、突然彼らに運が向いてきたように思われました。テオボールドからの伝言が彼らを持っていました──彼は今や新法王グレゴリー10世になっていたのです。法王が彼らを助けることができるように、彼らは法王の御前に召されました。
彼らがふたたび彼と会ったとき、グレゴリー法王はクーブラ・カンに個人的な伝言を伝え、多くの高価な贈物を渡してくれと依頼しました。彼はまた、大汗の宮廷に連れていくようにと2人のドミニコ会の修道士を提供してくれました。
ポーロたちはふたたび出発しました、今度は法王の祝福をたずさえ、カンが要請していたキリスト教の修道士も同行していたのです。
しかし、5人から成る小さな一行がアヤスに到着したとき、ふたたび困難が始まりました。アヤスから、道はアルメニアを通って東方へとのびていました。それはでこぼこの困難な道で、ときには砂漠の砂のなかの単なる小道のこともあり、それをたどるのは非常に困難でした。川を歩いて渡らなければならなかったし、道はしばしば険しい崖の中腹から突きでた狭い岩棚になっていました。はるか下の深い岩だらけの谷間には、危険な急流が流れていました。
2人の修道士は冒険心のない男たちでした、そしてこの道のことを考えるだけで恐怖にかられたのです。さらに彼らが武装した男たちの一行に会って、アルメニアで戦争が起っていると聞かされたとき、彼らはたえきれなくなりました。彼らはこれ以上前に進むのを拒否し、法王の大汗への贈物をポーロたちにあずけてもどっていったのです。

 そこでベニス人が3人だけで出発しました。彼らはときには徒歩で、ときにはラバに乗り、ときにはラクダに乗って旅を続けました、そして夜は星空の下で野営しました。マルコは、ベニスの居心地の良い家からはるか遠くに来たと感じたにちがいありません。
彼らは戦闘を避けて北方よりの道をとりました。マルコは今やそれまでに見たことがない国にいたのです、そして、彼は途中で見たことすべてについて注意深く書きとめました。
彼が覚えている不思議な光景のひとつは、地面から湧き出る石油の泉でした。その近くに住む人びとは、それは日夜枯れることがないと彼に話しました。マルコの覚え書きは次のようにしるしています 「この石油は食用には適さないが燃料には適し、かいせん(かいせん虫によっておこる皮膚病) やひぜんに悩む人間やラクダにとって膏薬として役に立つ。人びとはこの油を持ち帰るために遠くからやってくる」
この場所は近代世界ではバクー油田として知られているところで、今日の飛行機や自動車の燃料である、ガソリンのもとになる原油を多量に供給しています。
マルコはまた多くの物語や地方の伝説を聞き、後にそれを書きとめています。それらのなかには、ノアの方舟の話もありました、彼が聞いたところによると、方舟は大洪水の後に上陸した高い山、アララット山の頂上に今なお見られるということでした。

 3人の旅人は今度は南に向い、ペルシア湾をめざしました、そこで中国まで、途中にあるインドをまわって、乗せていってくれる船をみつけたいと思っていたのでした。海路で行くことができれば、危険なゴビ砂漠を横切らないですむからでした。
道がたいへん悪かったので、今や彼らは1日に約20マイル(32km) しか進めませんでした。気候もたいへん暑かったので、毎日日中は3、4時間休まなければならなかったのでした。
彼らの長い旅のなかで、この地域を通っていたとき、彼らは有名なバクダッドを訪れました、マルコはこの都市を 「このあたりで見られるもっとも高貴でもっとも広い都市である」 と書きしるしています。それは椰子の木立と美しい庭園にかこまれた、明るい瓦でふかれた回教寺院とその尖塔とを持つすばらしい都市でした。
バクダッドは、ベルベットと金の布と豪華な錦織りで有名でした、それらのものはベニスから来た商人たちの興味を引いたにちがいありません。
バクダッドはまた、ハルン・アルラシッドと、有名な 「アリババと40人の盗賊」 とか 「アラジンの不思議なランプ」 などが書かれているすばらしい物語、千一夜物語の都市でもありました。
しかし、バクダッドは学問の中心として、もっとも有名でした。天文学と科学がそこで研究されるものの一部でした。

 マルコと彼の父と叔父がめざしたのは、カーマンと呼ばれる町でした。旅は今や快適なものになっていました。彼らは奴隷や護衛を引き連れた多くの他の商人たちといっしょに旅をしていました。このあたりは盗賊や山賊がしばしば現れるので、多人数で旅する方が安全だったのです。
道路はつねに砂漠の中を走ったり、高い危険な山地を走っているわけではありませんでした。豊かな田舎の牧草地を通ることもありましたし、砂漠の中にも椰子の木の生えたオアシスがありました。マルコは日がたつにつれて、狩猟とか鷹狩のことについて書いています。
彼はまた、ベツレヘムの赤ちゃんのイエスを訪問した3人の賢人に関するその地方の伝説についても書いています。3人の賢人はサヴェーと呼ばれる町の美しい墓に埋葬されていて、そこをマルコは旅の途中に訪れています。伝説によると、3人の賢人が辞去する際、赤ちゃんのイエスが小さな箱を贈りました。彼らがそれを開けると、その中に入っていたのは小さな石だけでした、彼らはがっかりしてその石を井戸に投げ入れました。その井戸は不思議なほのおを吹き出し、それ以後ずっと燃え続けているというものでした。

 カーマンで道は分かれていました。東へ行く旅人はアフガニスタンの北部に向かう北のルートを進むか、南に転じてペルシア湾の端にある港町ホルムズに進むかのいずれかでした。
マルコがそのときとった南への道は、荒涼とした山岳地帯を通っていました。ときどき、高い山を越えているとき、彼はひどい寒さに苦しみ、平原に下りてくると暑さは息苦しいほどでした。
商人たちの一行が、その地域を恐れさせていたカローナスと呼ばれる山賊に攻撃されたのは、この道を通っているときでした。彼らはその犠牲者を混乱させ、また、こわがらせるために、攻撃するときには 「魔法の霧」 をまき起すと信じられていました。今日では、これは熱風によってまき上げられた細かいほこりの微粒子が原因の 「乾いた霧」 であると考えられて
います、しかし、マルコ・ポーロの時代には、このようなことはわかっていませんでした。
山賊と商人たちの一隊を護衛する人びととの間に戦闘が行われました。しかし、護衛の数は少なく、事態は悪くなりました。
ポーロたちは、カマサルと呼ばれる近くの城壁に囲まれた町へ逃げのび、くじかれた攻撃者は馬に乗って去っていきました。

 数日後、ポーロたちはそれ以上危険な目に会わずにホルムズに到着しました。マルコは父と叔父とともに船を探しに波止場に行きました。
彼らは、インドの南をまわっていく長い航海に適した船を発見することができませんでした。ポーロ一行は、水夫たちがホルムズ港にいるどの船かにその命を委ねることかできるとは、ほとんど信じられませんでした。
マルコは、どの船も 「最悪の種類のもので、航海には危険であった」 と述べています。板は釘ではなく木のくぎで止められており、ココ椰子の木の皮でしばりつけられていました。今日でも、ペルシア湾には、このような様式で作られた船を見ることができます。

 これらの船には帆がひとつしかなく、錨はありませんでした、悪天候のときには、船はよく岸に打ち寄せられて難破しました。
ニコロはこのような船で航海する危険を冒すよりは、カーマンに引き返して中国への陸路をとる方が安全であろうと決めたのです。
マルコはホルムズを離れるのを喜びました、その町は、不快なほど暑くゆううつな町だったからです。そこで誰かが死ぬと、女たちは、1日に少なくとも1回は嘆き悲しみ泣きわめいて、4年間も喪に服さなければならなかったのです。

 彼らは複雑な感情をいだいて、カーマンへもどる200マイル(322km) の旅に出発しました。彼らは山道の寒さと平地の暑さを思い出しました。とりわけ、山賊のことが頭から離れなかったのでした。
彼らは用心深く旅をして、やっとのことで無事にカーマンに着きました。ここから、彼らはふたたび東に向かって出発しました。
彼らが今度越えなければならなかった地方は何もない砂漠でした。砂のほかには何もありませんでした、木も水もなく暑さは強烈でした。野生の動物さえもそこを避けたほどでした。
彼らは何日もかかってその砂漠を越え、とうとうパークの町に達しました。
ここでアレキサンダー大王がペルシア王の娘ロクサナ王女と結婚したのだと、彼らは聞かされました。マルコは 「パークの宮殿はすべて廃きょであった」 としるしています。
ここで道はふたたび分れていました。一方の道は北方サマルカンドに通じ、もう一方は南方カブールを経てペシャワールに通じ、さらにもう一方はボカラを通る北西の道でした。
しかし、ラクダの御者と相談して、ニコロは真東に進んでカシュガールに行くことに決めました。

 この道は他の道より短かったのですが、彼らは 「世界の屋根」 として知られる、高い山岳地帯を越えなければなりませんでした。これは海抜1万5600フィート(4755m) のパミール高原で、その間をオクサス河がアラル海へと流れています。
マルコは、この高原に登ることがどんなにつらいことだったかということをしるしています、というのは、彼らがそれまでの旅のなかで越えてきたどこよりも、そこは困難な場所であったからです。
そこには、彼らをおどろかせた数多くのものがありました。そこには鳥も人びともまったく住んでいませんでした。また、厳しい寒さでした。食べものを料理することになると、マルコの言葉によれば 「いかにも異常に思われるかもしれないが、烈しい寒さのため、火を燃やしても低いところと同じ熱は出ないし、食べものを調理しても同じ効果はでてこない」 というありさまでした。
マルコは厳しい寒さがその原因であると考えましたが、今日の我々は高いところでは酸素が少ないからだということを知っています。すなわち、水が低い温度で沸騰し、したがって食べものが煮えるのに、より時間がかかるのです。
マルコは、パミール高原に住んでいる、大きな曲がった角を持つ野生の羊について述べています。その羊について記述したのは彼が最初ではありませんが、彼にちなんで、オーヴィス・ポーリーと名づけられています。

 マルコ、マフェオ、ニコロは、パミール高原を後にして、世界じゅうでもっとも美しい地方のひとつである、カシミールの北の端を越えました。
彼らは、マルコが美しい庭園とブドウ園があったとしるしているカシュガルを通り、ひすいの鉱山で有名なコータンも通りました。(ひすいとは非常に堅い貴重な石で、通常青みがかった緑色ですが、ときにはクリーム色とか白色のもあります。それは宝石として使われるのはもちろん、彫刻をほどこした装飾品としてもしばしば使われます)。
やがて景色は変り、彼らはそれまで越えてきたすべての砂漠のなかで最悪の砂漠に着きました。この砂漠はときにはゴビ砂漠と呼ばれることもありますが、その名前は、ほんとうはマルコのとったルートの北東にある大きな蒙古の砂漠をさすものです。ポーロ一行が、カシュガルを出てから着いた、この恐ろしい場所の名前はタクラマカン砂漠でした。彼らがその砂漠を越えるには1か月以上もかかるのです、そして水場は1日の行程以上離れて存在していたのです。
それは不気味な禁断の場所で、たまにあるオアシス以外、生物はいませんでした。マルコはその場所についてこう言っています。「この砂漠が、旅人を破滅へと誘いこむ悪霊のすみかであることはよく知られている事実である。行くべき道を見失い、どうやってその道にもどったらよいかわからずに、人びとは飢えでみじめに死んでいく」
マルコはまた砂漠の不思議な蜃気楼も見ています。蜃気楼では、湖や木や建物さえもが、砂の中に現れたように見えるのです。これは実在の建物や木やその他の物 (それらははるか遠く、地平線の下にあります) が、暑い空気の層に反射して見えるのです。

 ありがたいことに砂漠を越えて、ポーロ一行はタングート地方のスウチョウへと到着しました。彼らは緑の野原や肥沃な山あいを見、ふたたび人びとのいるところにもどれて喜びました。彼らはしばらくの間この地にとどまりました。マルコは石綿について、また、それから防火布がどのようにして作られるかについて述べています、石綿がこの地方で掘られていたのでした。
やがてポーロ一行はカンチョウへと進み、ここにも長く滞在しました。ここで、マルコは初めて万里の長城を見たにちがいありません。

 万里の長城は世界の不思議のひとつです。それは2000年以上も昔に築かれ、その目的は北方の蛮族を中国に侵入させないためでした。
長城は、1400マイル(2250km) の長さがあり、谷間を通り、山上を縫って、今日なお残っています。建設当時、それは20フィート(6m) の高さがあり、2台の車がその上を並んで走れるほどの幅がありました。兵士たちが辺境を警備するための堅固な塔が、短い間隔をおいて建てられていました。
非常に多くのことについて記述しているマルコ・ポーロが、万里の長城については何も述べていないのは奇妙なことです。

 ポーロ一行がふたたび動き出したとき、彼らは北東に向かいました、カンが北の都シャンツーにいると知ったからでした。彼らが旅の終点まであと40日ほどのところを旅していたとき、ポーロ一行はクープラ・カンからの使者に迎えられました。
当時はもちろん電話はありませんでしたが、中国人は、たいへんうまく仕組まれ、おどろくほど迅速な伝達機構をもっていたのです。
広い郵便街道が、首都からすべての地方に通じていました、そして駅舎が約20マイル(32km) ごとに置かれていました。人や馬がつねに待機していて、重要な手紙を遠くへ運ばなければならないときには、それはリレー競走のようにひとつの駅舎から次の駅舎へと、夜を日についで運ばれました。馬が着いたらすぐに出発できるように準備して、新しい馬が馬具をつけて待っていたのです。
このようにして、伝言を1日に約200マイル(322km) も運ぶことができました。伝令は伝言を運んだだけではなく、遠い地方で摘んだばかりの珍しい果実を、首都にいる大汗の食卓に運ぶこともありました。

 この伝達のしくみによって、大汗は、ベニス人たちが彼の宮殿からはるか遠くにいたにもかかわらず、彼らが近づいてくるのを聞いていたのでした。
しかし、その後の40日間は、砂漠で過したつらい恐ろしい数週間とはたいへん異なりました。旅人たちは今やクープラ・カンの保護の下にあり、どこでも敬意をもってもてなされ、あらゆる快適さと保護を与えられる名誉ある賓客になったのです。
ついに彼らがシャンツーに着いたとき、カンの夏の宮殿はすばらしい光景だったにちがいありません、宮殿は白大理石で造られ、広間や部屋は金で飾られていました。今やマルコ・ポーロは初めて大汗に会い、彼をりっぱな、そしておどろくほど人間的な人物だということを発見しました。
彼は述べています 「彼は背が高すぎてもいず低すぎてもいず、中背の人である。顔色は良く、バラのような赤ら顔で、目は黒く端麗であり、鼻筋が通っていて、きちんとあるべきところにおさまっている」
カンは法王からの手紙と贈物に大喜びをしました。そしてポーロ一行を礼をつくして歓迎しました。

 ベニスから中国への旅は3年以上かかりました。ときおり、ニコロ、マフェオ、そして彼らについてきたマルコは、商人として商売ができるところでは数週間か数か月も滞在しました。
マルコは20歳の若者になっていました、そしてカンの宮殿に無事に到着できて.たいへん喜びました。もしも彼がその後そこに17年間もとどまることになるのを知っていたら、彼もそれほど喜ばなかったかもしれません。
彼は夏の宮殿に数か月滞在し、カンのお気に入りの娯楽である狩猟旅行に加わりました。
彼は宮廷で見た多くのことについて書き残しています。カンの 「携帯用の宮殿」 があり、夏の狩猟のための中心地として彼はそれを使いました。
それは竹で造られていて、絹のロープで形作られるものでした。それはテントのように、折りたたんで、カンの行きたい次の場所へ移動させることができました。
マルコは、チベットやカシミール出身の大汗の魔術師にも興味を持ちました。彼らはみんなが見守っているなかで、カンの盃を空中に浮かばせて、彼の手に渡すことができましたし、彼らはカンの狩猟のため好天を保証することができると思われていました。

 中国の首都はカーンバリクで、今日のペキンの場所にありました。夏を狩猟に過した後、カンとその廷臣はマルコを伴って首都にもどりました。
マルコはカーンバリクについて多くのことを書いています、というのは、そこは非常に印象的だったからでした。それはすばらしい都市で、美しいまっすぐな道路が直角に交差し、長方形の城壁で囲まれていました。都市は高い城壁で囲まれ、城壁には12の門と多くの塔があり、どの門も1000人の兵士によって警備されていました。
市の中心には大きな鐘があり、それは毎夜鳴らされました。3度鐘が鳴った後は、誰も緊急な用事があるときを除いて、通りを歩きまわることを許されませんでした。
クープラ・カンの宮殿は大理石の台の上に高くそびえ、赤、緑、青、黄と色とりどりの瓦でふいた屋根を持っていました。宮殿の内部は、壁は金で装飾され、絵画がいっぱい飾られていました。大宴会場では6000人の客が一度に食事ができたとマルコは書いています。

 マルコ・ポーロは、やがてクープラ・カンの大のお気に入りとなりました、カンは、すぐに彼が正直で信頼できる人間であることを知ったのでした。
彼はまた、たいへんな勉強家でしたので、中国の4つの主要な言語の勉強に専念しました。その結果、彼は国事顧問としてカンに雇われることになりました。例えば、彼はカンの外交交渉のなかの重大な仕事について、ハンチョウで3年間を過したことがあります。

 マルコは見たものには何にでも興味をもって.それを書き残しました。いろいろ書いているなかで、彼は桑の木の皮から作られた、印刷した紙のお金について書き残しています、中国人は、それが西欧に紹介される何百年も前から、それを使っていました。これらの紙幣には王の印が赤いインキで印刷され、中国の帝国のどこででもそれを使うことができました。
不思議なことに、彼は本の印刷については記していません、中国人はそれをしばらく前に発明していたのですが。

 今では.マルコ・ポーロはカンの信任厚く、カーンバリク(ペキン) から何百マイルも離れたいくつかの地方に、重要な任務を帯びて派遣されました。
彼はマラヤ、スマトラ、セイロンにまで旅しました、さまざまな旅の途中で、マルコ・ポーロは、少なくとも3回はセイロンを訪れたと思われます。
彼はセイロンのサファイアについて述べていますが、セイロンのサファイアは今日でも有名です。
マルコが後年になってその有名な本 「東方見聞録」(原題は「世界の叙述」) を書いたとき、彼は自分が旅した国々の絵を入れようとしました。
彼が書きしるした国やもののなかのいくつかは、他の人びとからのまた聞きだったものもおそらくあったことでしょう。これで、彼の話のなかに人びとがとても信じないような、たくさんの 「ほら話」 があることで説明がつきます。
彼があまりにも誇張しているので、ベニス人たちは彼を 「ほら吹き」 と呼びました。彼の話は、しばしば 「無数の」 白馬とか 「莫大な富」 とか 「もっとも高価な宝石」 などに及ぶのです。また、彼によれば、チベットには 「世界一の大悪漢や盗賊」 がいました。
ベニス人たちは、奇妙な動物についての彼の記述をすべて信じたわけではありません。たしかに、象を食べる  「グリフィン鳥」は想像の産物です。しかし、現代の人びとは、彼が見て記述したキリンやワニのことはよく知っています。

 彼は、現在はビルマとして知られている、カレイアンに行ったことがありました。彼はカンの名代として、兵隊や召使を従えて威風堂々と3か月半の旅をしました。彼は、カラザン、ケイン・ドゥ、カレイアンの主要都市であるヤチといった、不思議な名前をもつ場所を訪問しました。
ミーンと呼ばれるところで、彼は2つのピラミッドから成るすばらしい墓を見ました。ピラミッドはそれぞれ厚さ1インチ(25mm) の金と銀でおおわれていました。各々のピラミッドの頂上には小さな鐘で取りまかれた金の球があり、それは風が吹くたびに鳴るのでした。
また別の旅で、彼ははるか北方に旅し、そこで雪や氷を見、そりに乗って旅する毛皮を着た人びとを見ました。
さらに別の旅の途中で、彼は食人種のうわさを聞き、彼らを 「食べるために人を殺す不快な野獣のようなやつら」 と述べています。彼は酒をしたたらせる木(クジャクヤシ) とか、木からとれる粉──今日我々がサゴと呼んでいるもの──についても述べています。

 17年間中国に滞在して、マルコ・ポーロは裕福になり、ベニスに帰ることを考えはじめました。クープラ・カンも年老いてきて、大汗が死ぬようなことがあれば、自分にどんなことが起るだろうかと彼は恐れたのでした。
ニコロとマフェオも、年老いてきていました。彼らも中国で成功し、余生を故国で過したいと思っていたのです。
クープラ・カンは彼らを離したがりませんでした。マルコ・ポーロは彼のもっとも信用できる役人であっただけではなく、カンは彼を気に入っていたのです。たまたま、中国の王女がペルシャ王と結婚するために、海路ホルムズに向かう旅のしたくをすることになりました。

 彼女を迎えにきた大使一行は、3人のベニス人に彼らの帰りの航海に同行してくれないかと頼みました、彼らは航海にたけていると有名だったからでした。
クープラ・カンも同意しました、そして、14隻の船から成る船隊が装備されました。彼らは1292年に中国を出発しました。マルコは今や38歳になっていました。何回も遅れがあって、ペルシアへの航海は2年間続きました。

 マルコ・ポーロは、やっとペルシアに着いたとき、クープラ・カンが死んだことを聞きました。3人のベニス人たちには、もう中国へもどらなければならない理由はなくなったのです。
ペルシアの若い王は、馬と食料とペルシアの領土内でずっと彼らを守ってくれる護衛兵を1人提供するという金色のパスポートを、彼らに与えました。このようなパスポートがなかったならば、彼らは故国への旅の最後の段階で殺されるというような危険な目にあっていたことでしょう。
彼らがついにべニスにもどったのは1295年で、ベニスを出発して24年後のことでした。
彼らはあまりにも長い間故国を離れていたので、彼らが誰だかわかる人は誰もいませんでした。彼らは旅の間じゅう着ていた、すり切れた服を身にまとい、その上、イタリア語の話し方もほとんど忘れていたのです。クープラ・カンの宮殿のすばらしさについての彼らの話は信用されず、ベニスの商人たちは彼らをばかにしました。
しかし、3人の旅行者は見かけほど貧しいわけではありませんでした。みすぼらしい上着の縫い目を切り裂くと、彼らは両手いっぱいに高価な宝石を取り出したのでした。

 どのようにしてマルコ・ポーロの話が書かれるようになったのでしょうか。
たぶんマルコは、おどろくべき記憶力を持っていたのでしょう、また、彼は訪れたすべての場所について書きとめていたようです、なぜならば、彼はその本 「東方見聞録」 のなかに記されている、すべての不思議な、そして異常な事実を書きとらせることができたからです。
我々が確実に知っていることは、その本は、マルコ・ポーロと同じときにジェノアに囚人として囚われていた、ルスティチェロと呼ばれる人よって書かれたということです。彼らはベニスとジェノアのガレイ船間の海戦でジェノア人の捕虜となったのでした。マルコ・ポーロはベニスのガレイ船の司令官だったのです。
彼は1299年にまたベニスにもどり、彼の冒険はついに終りました。彼は定住して3人の娘をもうけました。彼の遺書から、彼が1324年に死んだときには裕福ではなかったことがわかっています、彼の旅から得た莫大な富はそれまでもたなかったのでした。
しかし、東方の国の豊かな生活を示す、すばらしい絵のはいった彼の本は、彼に歴史のなかの地位を与えました。彼の名前は、古今を通して、もっとも注目すべき旅行家のひとりとして、つねに思い起されることでしょう。


もどる