レディバードブックス100点セット
 

 

アレキサンダー大王

 マケドニアのアレキサンダーは、2000年以上も前の紀元前356年に生れました。彼は、世界に知られる名将の1人で、賢く公正な統治者でもあったので、アレキサンダー大王として知られています。
アレキサンダーが少年のとき、父親のマケドニア国王フィリップは、有名なギリシアの哲学者アリストテレスを家庭教師として呼びました。アリストテレスの教育は、アレキサンダーの全生涯に影響を与えました。
私たちの知っているギリシアは、当時数多くの小さな王国に分れていました、父親のフィリップ国王は、もしこれらの王国を統一できれば、当時東方からギリシアの国々をおびやかしていたペルシアに対抗できる強力な国になると思いました。フィリップの考えに賛成する国々もありましたが、反対する国もいくつかありましたので、主義の一致をはかるため、フィリップは遠征隊を送らなければなりませんでした。
アレキサンダーは18歳のとき、こういう遠征軍の1つの左翼司令官として加わりました。ギリシア王国の1つ、テーべを破る戦いで、アレキサンダーは勇敢に戦い、賢明な指揮者として名をとどろかせました。

 アレキサンダーが20歳のとき、父親のフィリップ国王は暗殺されました。フィリップ国王のなかだちでコリント同盟を結んだギリシアの国々は、若い国王にはおさえる力がないと考えて、すぐに解散しようとしました。しかし、それは見こみちがいでした。
父親の将軍だったアンティパターの助けで、マケドニア国王となったアレキサンダーは、すぐにギリシア国家の指導者としての地位を確保するため動き出しました。アレキサンダーは南に行進しました、マケドニアの軍団を見たギリシアの国々は、コリント同盟の指導者であった父親の後継者に、アレキサンダーを選びました。
そのころ、マケドニアの北方、つまり、現在ブルガリアのあるあたりですが、その部族が北の国境をおびやかしていました。アレキサンダーは、不意をついて襲撃し、トリバリの部族を征服してダニューブ(ドナウ) 川まで進撃しました。しかし、その部族は、女、子どもを先に対岸に送っていたのです、戦いから逃れた者がそこに合流しました。他の部族も助けを送って、対岸からアレキサンダーに抵抗しました.
アレキサンダーは、木を切り倒していかだを作るよう命令し、5000人以上の兵士にダニューブ川を渡らせました。こうして、アレキサンダーは残った部族を簡単に追いはらいました。

 アレキサンダーがダニューブ川で戦死したといううわさが流れ、ギリシアの国々は、ふたたびむほんを起しました.
アレキサンダーはためらいませんでした。兵を集めて南方へ進撃する途中、ペルシア国王がギリシアの国々に武器と軍資金を提供していることを知りました。14日かかって、最初のむほんが起きたテーベの町へ着きました。
ギリシアの国々のなかでも、アテネとスパルタはなりゆきを見守っていました。アレキサンダーは、テーベが降参するのを期待していましたが、降参しない場合にはすぐ町を攻められるよう準備をしていました。テーベの人たちは降参せず、アレキサンダー軍団を迎えうちましたが、完全に負けてしまいました。マケドニアの軍団は亡命者といっしょに町へ入りました。
アレキサンダーは、征服した人びとに対して、いつも情ぶかく、町やその住民たちをゆるしました。コリント同盟を結んだ他の国々は、テーベをねたんでいましたので、むほんの見せしめをするようアレキサンダーを説得しました。テーべは、寺院と有名なギリシア人の詩人ピンダロスが100年前に住んでいた家を除いて、完全に破壊されてしまいました。テーべ人の一部はアテネに逃げましたが、8000人も奴隷として売られてしまいました。

 今ではまぎれもなくギリシア国家の指導者になったアレキサンダーは、父親の計画であったペルシアへの進出を実行することに決めました。
この進出には2つの理由がありました。ペルシア国王ダレイオスは、かつてギリシアの他の国々を援助してアレキサンダーに背かせようとし、今では機会さえあれば、公然と攻撃をしかけようとしていることをアレキサンダーは知っていました。もう1つの理由は、150年前にさかのぼります。
紀元前480年に、ペルシア玉クセルクセスが、マケドニアとギリシアに侵略し、アテネの町を焼きはらったのでした。
それ以後、ギリシア人は復しゅうしようと計画していました。そしてとうとう、アレキサンダーは、ギリシアとマケドニアの大軍を指揮することができるようになったのです。投げやりや弓、14フィート(約4m) の長やりで武装した3万5000人の軍隊をひきいたアレキサンダーは、はなやかに塗った船のマストに旗をはためかせながら、ダーダネルス海峡を渡りました.
ペルシアの計画は、アレキサンダーが来る前に、役立つものは全部焼きはらって退却し、その間にアレキサンダーに対抗できるだけの軍隊を集めようというものでした。ペルシア軍が退却したので、アレキサンダーは出会った小部隊をたやすく打ち負かし、ハリカルナスという、現在ではバドラムと呼ばれる町を包囲しました。このことによってアレキサンダーは、ギリシアの対岸のアジアの沿岸も指揮下に入れることになりました。

 アレキサンダーは、海岸から北に向けて攻めていき、現在のトルコの部族を攻め落としながら、ゴルディオンという町へ向かいました。今でもよく知られているたとえ話になったほどのできごとがあったのは、ここでした。
伝説によると、ギリシアの神ゼウスは、自分の寺院に荷車で一番初めにかけ登ったものが王様になるだろうと宣言しました。ある日、ゴルディアスという農夫が偶然これをやりとげ、同胞から王位を授けられ、ゴルディオンという町を作りました。
伝説は次のように続きます、ゴルディアスは、荷車のながえを非常にむずかしい結び方でくいに結えつけました、神のおつけでは、誰でももしこの結び目をといた者は、アジアの支配者となれると言われていたのです。
アレキサンダーは、この町を占領したときに、寺院に保存されている荷車を見せられました。アレキサンダーは、全アジアの支配者になりたいと思っていましたが、その結び目をとくために無駄な時間をかけませんでした。刀を抜いて、ひと振りで切ってしまったのです。そんなわけで、誰かがむずしい問題をといたときに、ゴルディアスの結び目を切ったと言うようになったのです。

 アレキサンダーのねらいは、小さな部族と戦って無駄な力を使うことではなく、ダレイオスの指揮するペルシア軍を打ち破ることでした。アレキサンダーはふたたび南方のタルサスに向い、そこで、アレキサンダーの性格の内面を見せる、あるできごとが起りました。
アレキサンダーが高熱の病気にかかり、薬の入ったグラスを医者のフィリッポスから手渡されたちょうどそのとき、フィリッポスがダレイオスに買収されて、アレキサンダーを毒殺しようとしていると書かれた手紙を受け取ったのでした。アレキサンダーは、フィリッポスを信頼していたので、彼にその手紙を渡しながら、薬を飲み、信頼のほどを示したのです。
ダレイオスも、アレキサンダー軍を打ち破ることを願っていました。両軍は、イッソスと呼ばれる、現在ではトルコとシリアが境を接する海岸の近くで戦いました。アレキサンダーは、この戦いに勝って、のちにアレキサンドレッタといわれるアレキサンドリアの町を作りました。今日では、トルコ名のイスケンデルンとして知られているところです。
ダレイオスは形勢が不利とみて、東方へ逃げました。戦いが終ってから.アレキサンダーは、ダレイオスの母親や妃、娘が捕虜になっていることを知りました。アレキサンダーは、その人たちを大切にとりあつかい、不自由をさせないように命じました。

 ペルシア軍はちりぢりとなりましたが、それでもダレイオスは地中海に船団を持っていました。アレキサンダーは、それに対抗できるだけの船団を持っていませんでしたので、ダレイオスの船が必要物資を補給できないよう、全部の港を占領することにしました。そうすれば、ダレイオスの船団は無力となり、手も足も出なくなるはずです。
パレスチナの海岸の町は、どこも次々とアレキサンダーに降参し、タイアーという町に着きました。この町は、前の戦いのとき、包囲のなかで13年間持ちこたえたところですから、市民たちは、アレキサンダーをうまくかわすことができると思っていました。
タイアーの町は、岸から約半マイル離れた島に作られました、そこで、アレキサンダーは、兵士たちが攻めていける道を作るよう命令しました。水深が浅いところはわりあい簡単にできましたが、タイアーの城壁の近くは深いので仕事がむずかしいだけでなく、タイアーの守備隊は昼間作ったところを夜の間にこわすことができるのです。
アレキサンダーの工兵たちは、重い石弓を乗せるためのいかだを作り、この援護射撃のなかで道を完成しました。7か月にわたる包囲攻撃の末に、町は攻め落されました。ペルシア船団は、アレキサンダーにもう二度と攻撃をしかけてきませんでした。

 タイアーを占領した後、アレキサンダーは地中海の海洋沿いに進軍を続け、エジプトまで行きました。ナイル川河口の三角州で、彼は休みをとりました。
アレキサンダーは、将軍として技量を発揮しただけではありません。遠征するときはいつでも、科学や美術、商工業にくわしい人びとを連れていき、その人たちの話を喜んで聞きました。アレキサンダーは、他国を征服するたびに、商業が栄えることを知っていたのです。
ナイルの河口は、たくさんの小さな川に分れていました、アレキサンダーは、ここに大きな港を作り、船がエジプトの豊かな産物を求めてやってこられるようにしようと計画しました。アレキサンダーは、軍団を率いてさらに数千マイルも離れた東方に進出したとき、建築家や技師、設計家を残して仕事を続けさせました。しかしアレキサンダーは、夢にえがいた町を見にもどることはありませんでした。
現在までもこの町アレキサンドリアは、ここを建設した偉大な征服者の永遠の記念として残っています。アレキサンダーには知るよしもないことですが、建設されてから数世紀の間に、この町はますます重要になり、その港には世界じゅうの船が出入りしています。

 エジプトの人びとは、アレキサンダーに反抗しませんでした。自分たちをペルシア人の圧政から救ってくれた人として、アレキサンダーを迎え入れたのです、そして彼を、メンフィスで、ファラオと呼ばれる全エジプトの王に任命しました。
当時、重要なことがらは神のおつげを聞くのが習慣になっていました。神のおつげを司祭が聞く場所で、もっとも有名なところはギリシアのデルフォスでした。もう1つは、アレキサンドリアから砂漠を横切り、300マイルほど離れたところにあるエジプトの神アマン神殿でした。
現在シワ・オアシスと呼ばれる場所にあり、ダレイオスとの戦いに勝利をおさめるかどうかを知るために、アレキサンダーはそこへ行くことにしました。もちろん、砂漠を横切る道はなく、アレキサンダーの案内人は道に迷ってしまいました。ヘビや鳥の後を追いながら、ようやくオアシスに着き、ついにアレキサンダーは神のおつげを受けました。
司祭は、アレキサンダーをアモンの子として、丁重に迎え入れました、というのは、エジプトのファラオは神々の子孫だと考えられていたのです。
アレキサンダーが、この神のおつげを信じたかどうかはわかりません。たぶん彼は信じたことでしょう。

 ダレイオスは、もう1つの軍団を集めるだけの余裕がありました。ダレイオスは、また、歩兵を効果的に倒すために、鎌つき戦車をいくつか作らせました。それは戦闘用馬車の車軸に長く鋭い刃をつけ、全速力で歩兵集団の間をかけぬけると、多くの兵に痛手をおわせることができるものでした。
アレキサンダーはエジプトから帰る途中、ダマスカスに立ち寄りましたが、そこでダレイオスの宝物を大量に手に入れました。ユーフラテスとチグリスの2つの大きな川を、戦わずに渡りました。チグリス川の向う岸には、ダレイオスがアレキサンダーを待っていたのでした。
紀元前331年の10月のある朝、両軍団は対決しました。アレキサンダーは、兵士たちにたっぷりと食事と睡眠をとらせるよう手配していました。ペルシア軍は、一晩じゅう武装したままでしたので、空腹で疲れていました。
戦いが始まり、鎌つき戦車が攻めはじめました。しかし、アレキサンダーの投げやり隊は隊列をあけて、戦車を通らせると、すれちがいざま馬を倒してしまいました。アレキサンダーは、すぐ騎馬隊に攻めさせ、ペルシア軍の歩兵を打ち破り追いはらってしまいました。勝利をおさめたアレキサンダーに、バビロンへ入城する道が開けたのでした。

 ダレイオスは、自分の兵士たちはどうとでもなれとほったらかし、自分だけはいつものように戦闘から逃げてしまいました。アレキサンダーは、すぐには追いかけませんでした。
バビロンで、アレキサンダーは賢明な征服者としてふるまいました。すべての土地の習慣をもとどおり復活させ、ペルシア人の貴族を市政責任者に任命しました。まもなくアレキサンダーの軍団は、ふたたびペルシア湾の最上端の東100マイルにあるペルセポリスに向けて、南東に進撃を開始しました。
アレキサンダーは、部下たちを長距離にわたって強行軍させて、多いときには1日に36マイルも進みました。これには相応の理由があったのです。
ペルセポリスにはダレイオスのたくさんの宝物があったので、アレキサンダーは、その宝物が移される前に着きたかったのでした。アレキサンダーは成功し、4400万ポンド近くに相当する金を手にしたといわれています。
その間に、ダレイオスは、現在のハマダンの町であるエクバタナに向かい、真東へ急いでいました。宝物を手に入れたアレキサンダーはダレイオスの後を追いましたが、エクバタナに着いたときには、すでにダレイオスは逃げ去っていました。一夜に50マイルも馬を走らせる強行軍で、最後には1人になってしまうほどでしたが、アレキサンダーはダレイオスに追い着きました、しかし、みつけたときには、ダレイオスはすでに自分の部下の2人の将校に殺されていました。

 エクバタナで、アレキサンダーは金と銀で作られたすばらしい宮殿をみつけました、東洋のはなやかな雰囲気に包まれてすわったとき、アレキサンダーはついにこの国の支配者になったと感じました。
昔の先生だったアリストテレスは、平和を保つことは、戦争をすることと同じようにむずかしいことなのだとアレキサンダーに教えました。アレキサンダーはマケドニア王であり、今では征服したペルシアの王でもありました。アレキサンダーの目標は、この2つの国と、ギリシア人とペルシア人を1つに統一することでした。
まず最初に、ギリシアやマケドニアの将軍と同じようにペルシア人の貴族を、町や軍の長官に任命しました。つぎの仕事は、バビロンを新しい帝国の首都にすることでした、新帝国は地中海からカスピ海にまでおよび、このあとすぐ、もっと大きくなるのです。
このことを、ギリシア人やマケドニア人の臣下たちは喜びませんでした、アレキサンダーが、ギリシアの服からペルシアふうの衣服に変えると、ますます反感は大きくなりました。アレキサンダーは、アジアの帝王という新しい呼び名を選び、貨幣を鋳造しました、この負幣は今でも博物館で見ることができ、ペルシアの王家のライオン・グリフォン像が描かれています。そのとき、アレキサンダーはまだ27歳でした。

 アレキサンダーは、東方に進軍する準備ができました。ペルシア帝国がどのくらい広いかわかりませんでしたが、アレキサンダーはペルシアの全部を征服しようと決心していました。
ムルガブ川に着いたとき、アレキサンダーは、現在のアフガニスタンのあたりですが、南方の部族が彼に背いて武装ほうきしたことを耳にしました。アレキサンダーは、この部族を残して東に遠征したら、物資と兵士の補給ができないことがよくわかっていました。短期間の戦いで、この国を平定し、アレキサンダーはふたたび出発しました。
アレキサンダー軍団が進軍した地方には、大きな都や町はありませんでした。小さな村と支配者の宮殿だけがありました。商業をさかんにするには町が必要だと思い、アレキサンダーは、町をつくるよう念じました。そしてどの町も、地方名のあとにアレキサンドリアと名づけられました。
アフガニスタンでの戦いのために、アレキサンダー軍団は南に大きく遠回りしてしまいました。アレキサンダーは、雪深いヒンズークシ山脈の山々を越えて北東へ進まねばなりませんでした。アレキサンダー軍団は、食費と燃料の不足に悩まされ、死んだラバの肉を食べて生きのびたと記録されています。

 まだ戦いは終っていませんでした。オクセアルテスという強い王子に指揮された軍隊が、北方の山岳地帯をおさえていました。主要なとりでが岩山の上にあるオクセアルテス軍団は、アレキサンダー軍団が飛べないかぎり、絶対に占領することはできないとあざけりました。
攻撃隊は、鉄のくさびを岩に打ちこみ、ロープのはしごでどうにか頂上に達しました。守りについていた兵士たちは、攻撃隊を見てびっくりして降参してしまいました。
オクセアルテスは逃げのびましたが、捕虜のなかには彼の娘のロクサナがおりました。アレキサンダーは、連れ出されてきたロクサナを見てたいへん美しい娘だと思いました、まもなく2人は、はなやかなべルシアふう結婚式で結ばれました。
このことは、オクセアルテスに望ましい効果を及ぼしました。アレキサンダーが同盟を結ぶ用意があることを知ったオクセアルテスは、伝令を送って和解を申し入れました。アレキサンダーもそう望んでいたので、その後、オクセアルテスは信頼のおける同盟者となりました。このことで、アレキサンダーは、戦争をした後には必ず和解が必要という、偉大な師アリストテレスの教えを思い出したのです。オクセアルテスとの同盟で、平和が確立されました。

 アレキサンダーは、アフガニスタンのずっと北部にいました。その地方は荒々しい山ばかりで、東方にはまだ多くの反抗的な部族がいました。
強力な補充部隊が到着し、アレキサンダーは、今では3万人のいつでも進撃できる軍隊をもっていました。一行は、山の向うに何があるのか誰も知らない未知の世界へ向かいました。アレキサンダーは、東へ進んでいけば海へ出ると信じていました。地図を見れば、アレキサンダーがまちがっていたことがわかります。東方へ進んで海へ出るには、軍団は中国を横断しなければならなかったのでした。
アレキサンダーは、カイバー峠を通って山を越えるために、まず南東へ向かいました、この峠は、2000年後にイギリス兵の間で名高いものとなりました。
アレキサンダーは数々の戦いを経て、インダス川へ着きました。その向う側には、パンジャブという肥沃な国があり、ポーラスという強力な王子が200頭の象をもった大軍を指揮していました。大きくまわり道をして川を渡ったアレキサンダーは、背後から攻めて成功しました。アレキサンダーは、連れてこられたポーラスに、どのように取りあつかってほしいかたずねました。ポーラスは 「国王のように」 と答えました。この返答で、ポーラスは、アレキサンダーの尊敬と友情を得たのでした。

 ポーラスは、今ではアレキサンダーの友だちになり、アレキサンダーは、軍団に100頭の象を加えました。これらの象は、進軍のときには大軍の荷物を運んだので、この上なく役に立ちました、戦いのときには馬は象の相手ではなく、歩兵にいたっては馬力に近いのでした。
ポーラスを打ち負かした戦いのあと、アレキサンダーは2つの町をつくり、両方ともアレキサンドリアと名つけました。最初の町はアレキサンドリア・ニーケアで、アレキサンダー軍団が野営していたところです、2番目の町は、アレキサンドリア・ブケファラスでした。
この第2の町にまつわる話がありますが、この偉大な征服者アレキサンダーのちがった一面を見せてくれるものです。アレキサンダーは、戦場ではいつも兵士たちの先頭に立っていっしょに攻撃に加わります。もちろん、数百頭の馬をもっていましたが、とくに気に入っていたのはブケファラスという名の馬でした。
ブケファラスはアレキサンダーを、マケドニアからアジアまで数百マイルも乗せてきたのです。今ではその馬も死んでしまい、アレキサンダーは友人を失ったように悲しみました。歴史上、もっとも名高い馬の1頭となったこの馬を記念して、死んだ場所に町を作ったのです。また特別な硬貨も作らせました、その図柄は、アレキサンダーがブケファラスに乗ってポーラスの象を追いかけているものでした。

 東方へ向けて進軍は続きました、その間、アレキサンダーは、今度こそ次の丘から海が見えるだろうとずっと期待していました。
しかし、アレキサンダーの期待も兵士たちにはどうでもいいことでした。彼らは、ギリシアの故郷から数千マイルも離れた現在のアムリツァールの北にいました。ダーダネルスを横断してアジアに入ってから、もう8年以上の年月が過ぎ去っていたのです。
パンジャブの戦いは激しく、多くの兵士が戦死したり負傷しました。生き残った兵士たちは、そのうちの何人がふたたび故郷へ帰れるのだろうかと考えるようになりました。東にはもっとたくさんの敵が待ちかまえているのです。そして、次の川の向う側には、数千頭の非常にどう猛な巨象をもった部族がいるといううわさを、兵士たちは耳にしました。
軍団は反乱を起しました。アレキサンダーに忠実につき従い勇敢に戦った兵士たちは、それ以上前進することを拒否しました。これはアレキサンダーにとっては大きなショックでした。兵士たちの気持が変ることを期待して、アレキサンダーは3日間テントの中に閉じこもりました。兵士たちの心は変らず、アレキサンダーは、ただちに故郷へ向かって出発することを約束しました。兵士たちは大喜びしましたが、このあと最悪の事態が待ち受けているのを知らなかったのです。

 帰路の最初のうちは何事もありませんでした。アレキサンダーは、ジェラム川をくだって海に出ようと決め、約1000そうの船を作ったり集めたりしました。多くの兵士たちは船で航行し、他の兵士たちは馬や象といっしょに川岸を進みました。
やがて、ジェラム川は他の川と合流し、そこで兵士たちは戦いがまだ終っていないことをすぐに知りました。短期間の戦いでしたが、苦しい戦いでした。1つの町を攻撃したかと思うと、また次の町に攻め入らなければならなかったのです、またアレキサンダーはうら真っ先に城壁をよじ登り、後に続く、疲れて気落ちした兵士たちを勇気づけなければなりませんでした。
2度目のときは、たいへん勇敢な兵士たちさえも尻込みしてしまいました。そこでアレキサンダーは、はしごをつかんで城壁を登っていきました、続いた者はたて持ちと将校のレオナタスだけでした。アレキサンダーは、城壁から町へ飛びおりて、他の2人が追いつくまで1人で戦いました。
戦っている間にアレキサンダーは負傷してしまい、ベウセスタスがたてでアレキサンダーを守っている間にレオナタスは敵を追いはらいました。
ちょうどそのときアレキサンダー軍団がようやく町へなだれこみ、アレキサンダーは気絶したまま船に運ばれました。

 数千マイルにわたるアジア横断の行軍中、アレキサンダーは、つねにアリストテレスの教えを思い出しました。戦争で帝国を手に入れることはできるが、帝国を強固なものにできるのは商業だけだという教えです。
そこで、アレキサンダーは、行く先々で商人や貿易業者と話し合い、つねに東洋のにぎやかではなやかな市場で何を売っているかを知ろうとしました。昔からの貿易ルート(のちにマルコ・ポーロが旅行することになります) や、川と川を結ぶ運河などがすべて注意深く記録されました。
アレキサンダーは、あらゆる種類の商品が、世界じゅうのすべての商人によって東西間を自由に売買されるのを見たいと念願していました。新しく作った都市を、世界じゅうから商品が持ちよられる大市場にするつもりなのです。
各国間の取引を簡単にするために、アレキサンダーは、どこででも使用できる貨幣を発行しました。バビロンだけが自国の貨幣を造るのを認められました。しかし残念なことに、アレキサンダーが死んだあとは、各国はまた自国の貨幣を造るようになりました。もし世界じゅうが同じ貨幣を使用すれば、各国間の貿易は現在でももっと簡単になるはずです。

 アレキサンダーは、川を下っていき、海からあまり遠くないパタラというところに船を着けました。ここに、船で他国から商品を供給できる大きな港をつくりはじめました。アレキサンダーは、いぜんとして巨大な貿易帝国をつくる夢を持っていました。
すでに1人の将軍が、故郷へ向けて西方に出発していました。将軍は、重たい荷物と病気やけがをした兵士の全員とすべての象を連れていったのです。将軍は後でアレキサンダー軍団と合流することになっていました。
アレキサンダーは、現在のカラチ付近のアラビア海に到着しました。アレキサンダーと部下たちには、まだ見たこともない海を初めて見たすばらしい瞬間でした。アレキサンダーは、東方の海には到達できませんでしたが、南で新しい海をみつけたのでした。
ギリシアの昔からの宗教によれば、これは神にいけにえをささげるときでした。アレキサンダーは、ぶどう酒を海水にそそぎ、金の酒杯を波間の遠くへ投げて、自分の船団が無事に故郷の港へ着けるよう、海と風の神に祈りました。やがて、船団は出航しました。

 約3000人が、船でペルシア湾に向かって航行しました。アレキサンダーは、残りの軍団といっしょに、歴史に残るもっともおそろしい行軍の1つを開始しました。
アレキサンダーの計画では、船と連絡を取りながら海岸沿いを進むつもりでした。船が小さく、兵士たちに足りるだけの食糧や水を選べませんでしたので、ときどき軍団からの補給を受けることにしていたのです。
100マイルくらいはすべて順調に進みましたが、アレキサンダーは、突然海岸沿いの道が山脈でさえ切られていることがわかりました。内陸を進まなければならなくなりましたが、そのあたりは未開で地理もわかりませんので、土着民の案内人を連れていきました。ところが不幸なことに、案内人たちも、一歩内陸にはいるとそのあたりのことは、なにも知りませんでした。
アレキサンダー軍団は、水も食糧もなくなり、未開の砂漠地帯で完全に迷ってしまいました。日中はあまりにも暑いので、行進できるのは夜だけでした。200マイルほどの間、一行は荷物を運ぶための家畜を食べ、荷馬車をたきぎにして燃やしながら進みました。病気で倒れた人は後に残していくほかなく、数百人の人たちが途中で死んでしまいました。

 ようやくのことで、軍団はふたたび海岸に到着しました。アレキサンダ一は、兵士たちを休ませることができましたが、船の影は見えませんでした。船は先に航海を続けていたのです、ふたたび船と出会ったのは、さらに400マイルも陸路を進んでからでした。
船に乗った人たちも多くの冒険に会いました。そのうちの1つは、クジラの大群にあったことでした。船員たちは、まだクジラを見たことがなかったので、敵の船と勘ちがいしました。そこで、船を近寄せ、トランペットを吹きならして攻撃の準備をしました。敵船と思っていたものが突然もぐって姿をかくしたので、みんなびっくりしてしまいました。
また、船団と軍団は分れました。船団はペルシア湾の航行を続け、軍団は何年も前に遠征の途上で征服したペルセポリスに立ち寄って行進しました。
現在の地図でアフワーズとなっている、ペルシア湾のいちばん奥まったあたりで、船団と軍団はふたたび合流し、大祝賀会をもよおしました。この祝賀会で、アレキサンダーは、将軍80名と兵士1万名にペルシアの女性と結婚するよう命じ、ギリシア人とペルシア人を融合させようとしました。

 これはアレキサンダーが以前から考えていた大きな野心で、自分のつくりあげた大帝国に住む、さまざまな民族を1つに結び合せようという計画でした。アレキサンダーは、知られているかぎりの世界を、今ではすべて征服し終え、お互いに競争したり勝ったりしていた大小のさまざまな国を1つにして、世界的な国をつくろうとしていたのです。
これは遠大な計画でしたが、残念ながら、アレキサンダーは成しとげることができませんでした。ギリシア兵は、アレキサンダーの試みたやり方の1つにたいへん腹をたてました。ギリシア連帯を解散し、そのかわりペルシアの連帯に配属されたことに反対したのでした。アレキサンダーは、また反乱に直面してしまいました。
アレキサンダーは、不満を持っている兵士たちを集め、故郷に帰りたいと願っている者たちに向かって、次のように言いました。「おまえたちはみんな帰るがいい。そして、故郷の人たちに、こう話すんだ、世界をかけめぐって勝利から勝利へ導いてくれた我々の国王を見捨ててきたと」
反乱兵は後悔し、ふたたび大祝賀会をもよおし、不和が平和に解決したことを祝いました。9000人の客が大祝賀会に出席し、ギリシア人もマケドニア人もペルシア人も国王のテーブルに同席しました。彼らは、トランペットがひびきわたるなか、神々にぶどう酒をささげました。

  この大宴会でアレキサンダーはりっぱな演説をしましたが、その演説のなかで、全世界の人びとが平和で幸せにいっしょに暮せるよう、祈りました。その後、2000年にわたって、政治家たちはこの目的をとげようとしていますが、いまだに成しとげられていません。
アレキサンダーなら、この目的を達成できたかどうか、私たちにはわかりません。その後1年ほどしてアレキサンダーは死んでしまいましたので、この偉業は中断してしまったのです。
アレキサンダーは、もう1つの大遠征をバビロンで計画していましたが、今度のは平和な目的です。それは大きな港をつくり、1000そうの船を建造することでした。これによって、バビロンからエジプトへの航路を発見するために、アラビアの周囲の沿岸を調査しようというつもりだったのです。
船隊の出航予定の3日前に、アレキサンダーは病気になってしまいました。毒をもられたのかもしれません。野営内には、多くのペルシア人が友だち顔をしていましたが、実際には自分の国を征服されたことをにくんでいたのです。アレキサンダーは急激に衰弱しましたが、いぜんとして探険のため準備を指導し続けました。だが、すでに手遅れでした。32歳の若さで、アレキサンダーは、故郷から遠く離れた場所で、おさめることのない帝国の王として死んでいったのです。


もどる