レディバードブックス100点セット
 

 

ナポレオン

 ナポレオン・ボナパルトは、世界でもっとも偉大な2人の将軍のひとりでした。もう1人の偉大な将軍は、ナポレオンが生まれる2000年以上も前に死んだアレキサンダー大王ですが、アレキサンダー大王の物語は、この伝記シリーズの他の本であなた方は読まれたことと思います。ナポレオンは、偉大な将軍であったばかりでなく、現在フランスで施行されている法律の多くも作りました.
ナポレオンは、ヨーロッパじゅうのいかなる人よりも、旺盛な精力と知識とすぐれた頭脳を持っていました。1日のうち、たった4時間睡眠をとるだけで、20時間仕事にうちこむことができました。
このような能力とともに、ナポレオンは戦場でも議会でも正確に、また即座にものごとを判断する力をもちあわせていましたので、このコルシカ生まれの貧しい少年は35歳の若さで、フランス皇帝と同時に、ヨーロッパの君主となることができたのです。
1768年にコルシカ島はフランス領になり、その1年後にカルレス・ブオナパルテとレティジアの第2子として生れ、洗礼名はナポレオーネと名づけられました。これらの名前がイタリア風なのは、コルシカが以前イタリアに属していたからです。その後、ナポレオンは.名前のつづりを、現在私たちの知っているフランス風に変えましたので、歴史にナポレオン・ボナパルトとして知られているのです。

 ナポレオンの少年時代は、ほとんど知られておりません。コルシカは小さな島で、無学な農夫がほとんどのコルシカ人は、当時、新しいフランスの君主に反抗していました。のちにナポレオンの父親は、またナポレオン自身もこの反乱にかかわりましたが、その反乱は失敗してしまいました。そのために、ナポレオンたちは、しばらく島を離れることを余儀なくされました。
父親のカルレス・ブオナパルテは、イタリアのトスカニーの貴族に属するある一家と親せきでした。この親せきと友人だったマルボーフ伯爵の援肋で、ナポレオン少年は、フランスのブリエンヌにある士官学校に入学するための許可を得ることができました。
学校でのナポレオンは、あまり幸せなものではありませんでした。陰気な性格で、競技にもすぐれていなかったといわれています。それにつけ加えて、ナポレオンの話す言葉はコルシカなまりが強く、貧乏でもありましたので、金持のフランスの少年たちからバカにされました。
ナポレオンは、それほど優秀な生徒ではありませんでした。得意な学科は数学で、他に歴史と地理が好きでした。しかし、ナポレオンは記憶力がすばらしく、終生一度読んだり聞いたりしたことは、いつでも思い出すことができました。ですから、とりでを設計することや、兵隊の訓練計画をたてるなどということになると、他の少年たちよりもはるかにすぐれていました。

 数学にすぐれていたナポレオンは、やがてパリにある砲兵学校に送られました、この砲兵学校の数学教師は、ナポレオンのことを、自分が受け持ったなかで、もっとも聡明な生徒の1人だと報告しています。しかし、他の点では、あまり目立ちませんでした。
ナポレオンは、ラ・フェールの砲兵連隊に少尉として配慮され、これが当代最高の軍事司令官というすばらしい経歴の始まりでした。
ナポレオンは今や16歳になり、時は1785年でした。当時の大砲は、今日のように精巧な長距離砲ではありませんでした。鉄のかたまりの弾丸や、ぶどう弾と呼ばれるものを使用していました。このぶどう弾というのは、現在のりゅう散弾のようなもので、ゴルフボール大の小さな弾丸がたくさん入っていて、それが散らばり、一発で多くの人を死傷させることができました。
当時の兵士は、すはらしい軍服を着ていましたが、ボナパルト少尉はあまり見ばえが良くありませんでした。というのは、背が低く、やせていて貧弱な体で顔色も悪かったからで、ナポレオンは、その欠点を、顔立ちの良さと、才気のある目で補っていました。

 ナポレオンは、自分自身をフランス人というよりむしろ、コルシカ人であるとずっと思っていました。しかし、今やフランス軍の大尉として、パオリという愛国心の強いコルシカ人が指揮をしている反乱軍を鎮圧するために、コルシカに派遣されたのです。このことは、ナポレオンにとってコルシカと完全に手を切ることでもあり、 そのために、ナポレオンはコルシカに住んでいる母親と彼女の一族を、フランスに移さなければなりませんでした。
(母親の)ブオナパルテ夫人は、気性の強い人であり、固い信念の持主でした。夫人は、小さな子どもたちを連れて、彼女を捕えようとするパオリの手下からなんとか逃れました。
亡命者となって、すべての財産をなくしてしまったナポレオンの家族は、ナポレオンの給料だけで暮さなければなりませんでした。そんなとき、兄のジョセフは、金持の商人の娘と結婚しましたが、娘の父の意志に逆らった結婚でした。もし、娘の父親が、自分の娘がのちにスペイン女王となることを知っていたら、それほど強く結婚に反対しなかったことでしょう。
ナポレオンも、その商人のもう1人の娘と結婚したいと思いましたが、父親は断りました。11年後、ナポレオンがフランス皇帝になったとき、その父親は、若い砲兵大尉の結婚申込みを断ったことを、おそらく残念がったことでしょう。その娘は、のちにナポレオンの率いる将軍たちの1人であるベルナダットと結婚し、スウェーデン女王となりました。ベルナダットは王位を保ち、彼の子孫が現在のスウェーデン国王なのです。

 1789年にフランス革命が起り、その3年後、フランスは共和国となりました。国王が殺害されましたので、ヨーロッパじゅうの軍隊はその仕返しに立ちあがりました。
フランスのある地方は、まだ新政府に抵抗していました。その1つが、ツーロンの港で、そこの市民たちはイギリス艦隊に援助を求めていました、その艦隊が港に停泊中でした。
フランスの将軍たちは、ツーロンの町をどのように攻撃したら良いか決めかねていました。将軍たちは、砲兵隊の若い大尉の進言に耳を貸そうともしませんでした。これらの将軍たちにかわって、経験豊富な将軍が指揮をとることになったときにはじめて、ナポレオンに機会が与えられました、これがナポレオンの生涯を変え、全ヨーロッパに影響を及ぼすことになるのです。
未来の皇帝は、そのときはもちろんボナパルト大尉という名で通っていたのですが、砲兵隊の指揮官に任命されました。ナポレオンは、最初からツーロン港を見渡せる岬に大砲を設置するよう主張しました。大砲が設置されると、ナポレオンは砲弾を真っ赤に焼くために火ばちを据えました。
この真っ赤に焼けた弾丸が戦艦の上に落されはじめると、イギリス艦はツーロン港から逃げていきました。こうして、イギリスの援助がなくなったツーロンの町は、降伏しました。

 ツーロンの町を陥落させた手柄で、ナポレオンは代将(大佐と少将の中間で少将待遇) に昇進しました。この昇進は、たった24歳の青年にとっては早い出世でした。多くの年上の士官たちはナポレオンをねたんだり、多くの政治家はナポレオンを信用しませんでした。しかし、ナポレオンは優秀な士官でしたので、彼らも無視するわけにはいきませんでした。
ナポレオンは、次にイタリア北部でオーストリアと戦っているフランス軍に配属されました。ここでもフランス軍の将軍たちは、無能で、ナポレオンが来たばかりのころは、ナポレオンの発言に耳を貸そうともしませんでした。しかし、ナポレオンの進言をとりいれると、戦況はただちに変化しました。
若いナポレオンは、士官学校で軍事戦力に関する本を1冊読み、それを決して忘れませんでした。その本には、軍隊を指揮するための原則が書かれていました。その原則とは、攻撃地点を選ぶにあたって、敵よりも有利になれるところを選ぶこと、次に移動を迅速にして敵を急襲することでした。
ナポレオンは.この2つの原則をつねに記憶することにより、連戦連勝し、無敵と思われるほどでした。陣地をすばやく移動させる方法の他に、ナポレオンは敵を急襲するために、兵力を移動させる場所と方法を、地図を一目見れはすぐに判断できる能力を持っていました。

 イタリアから帰還したナポレオンは、政府内にいた友人たちが更迭され、自分自身も冷遇されていることを知りました。そんなときナポレオンは、フランスの革命政府を認めなかったバンデという地方と戦っている兵士たちの指揮をとってほしいという申出を受けました。
ナポレオンは、自分は砲兵の身分であり、歩兵部隊を指揮する知識はないとの理由で、この申出を断りました。のちに数十万の軍隊を指揮し、全ヨーロッパを征服した人の口から出た言葉とはとても思えないものでした。
1795年に、ナポレオンだけでなくイギリスを含むヨーロッパの国々の将来が変るかもしれない事態が起りました。というのは、トルコの王が軍隊を組織するために、フランスの砲兵士官に援助を要請してきたのです。ナポレオンはその職に魅力を感じ、志願する許可願いを提出しました。しかし、拒否されてしまいました。
ナポレオンの運は、下り坂にあるようでした。ナポレオンは、貧しく支持者もなく、ひもじい思いをしたこともたびたびありました。食糧を買うために時計さえ売らなければならないほどでした。そんなとき、以前と同じように一夜のうちに、ナポレオンの運命が変ったのです。ナポレオンの友人で、軍人ではなく、政治家のバラスは、パリで市民戦争に巻きこまれました。彼は、以前ツーロンの町を征服したナポレオンを思い出して、呼び寄せたのです。

 君主政治を願う王党派に組織された武装蜂起は、大がかりなものでした。王党派は3万人もの兵を集めて攻撃用意をしているのに対し、フランス政府の国民議会側はたったの8000人でした。しかし、その指揮官はナポレオン・ポナパルトでした。
サプロンという場所に、いわゆる砲台があり、王党派はそこを占拠しようとしていました。王党派は大隊を送って大砲を奪い取ろうとしましたが、ナポレオンが先手をうったのです。彼は、なさけ容赦しませんでした。王党派の軍隊が現れるやいなや、ナポレオンはぶどう弾を発射し、数百人もの兵が殺されました、残りの兵士は逃げ去っていきました。
ナポレオンは、有名なロワイアル橋など、パリの数か所で王党派を追い払いました、このナポレオンの働きに、国民議会側はたいへん感謝しました。ナポレオンは、今や名声を確立しましたが、それでも、どんなフランスの将軍よりも優秀な働きができることを証明したいと願っていました。
そのころ、オーストリアとの戦いは、フランスにとって不利な状態でした。今では政府要員と友だち関係になっていたナポレオンは、軍事を担当している大臣に面会して話し合いました。そして、自分を陸軍司令官として、イタリアに行かせてくれるよう要請したのです。

 陸軍大臣カルノは、承知しました。ポナパルト将軍は、イタリア遠征軍総司令官となりました。しかし、後に、彼にとって非常に重要なこと、つまり彼の結婚につながる、あることが、まず起ります。
不名誉な失職中の士官として、ナポレオンはジョセフィーヌ・ボーアルネに会いました、フランス革命で戦死したジョセフィーヌの夫の剣を返しにいったときでした。ジョセフィーヌ・ボーアルネはナポレオンより6歳年上で、最初はナポレオンをみすぼらしい若い士官と軽蔑していました。
バラスもまた、ジョセフィーヌ・ボーアルネと友人でしたので、ボナパルト将軍はまだ若く見かけはよくないが、優秀な人物であることを、ジョセフィーヌ・ボーアルネに保証しました。現在まで残っている26歳当時のナポレオンの肖像画にも、ナポレオンはもつれた長い髪をし、みすぼらしい服を着て描かれていますが、バラスは、男は見かけでは判断できないと確信していました。
バラスは、ナポレオンが10年もしないうちにどこまでえらくなるか知るよしもありませんでしたが、ジョセフィーヌ・ボーアルネの結婚相手にふさわしい男であると、彼女を信じさせたのです。やがて、2人は結婚しました、後年、ナポレオンは政策上の理由でジョセフィーヌ・ボーアルネと離婚しましたが、ナポレオンのジョセフィーヌ・ボーアルネに対する愛情は一生涯変りませんでした。

 ボナパルト将軍がイタリアに到着すると、年上の将軍たちは、パリの政治家がイタリア総司令官に任命した、この若いやせた青年を軽蔑の目で見ました。しかしすぐ、彼らのナポレオンを見る目が変りました。
ナポレオンは、フランス軍がたいへんひどい状態にあることを知りました。兵士たちの半数以上がボロ服を着て、全員空腹で、数か月間も給料を支給されていなかったのです。そこで、ナポレオンは、欲しいものは何でも手に入る、ものの豊富な場所へ兵士たちを連れていくことを約束することから始めました。もし兵士たちが勇気を出して戦えば、そのあとには名誉も名声も、そして富までも手に入ると、ナポレオンは言ったのです。
このナポレオンの言葉で、ひもじい思いをしていた兵士たちに新しい勇気が湧いてきました。兵士たちは、ナポレオンが、成行きまかせで満足するにすぎないような今までの年上の将軍たちとは、ずいぶんちがっていることに気づいたのでした。
ナポレオンは、将軍たちにはぶっきらぼうに対応しましたが、兵士たちには絶対そのような態度はとりませんでした。兵士たちと友だちのように接して、たくさんの部下の名前を覚え、1人1人の家族のことを気づかいました。こんなふうに部下を大切にする将軍は今までにいませんでしたので、兵士たちもナポレオンに忠誠を誓いました。彼の勇気は、みんなの尊敬をかち得ました。ローデの戦いで、ナポレオン軍は橋を奪い取らなければなりませんでした。オ」ストリアの砲撃は猛烈にナポレオン軍を攻めましたが、ナポレオンは自分で大砲を設置し弾丸を装てんしました。

 将軍はいつも危険な場所には近づかないものと思っていたフランス兵たちは、今度の司令官は、率先して砲手の役まで務めるのを見ておどろきました。それ以上にみんながおどろいたのは、ナポレオンが正確に大砲の役割と扱い方を知っていたことです。ローデの戦いに勝つと、ナポレオンは 「ちび伍長」 と、軍隊で呼ばれるようになりました。兵士たちは、ナポレオンを仲閲として受け入れたのです。このことは、最大の栄誉でした。
ナポレオンは、つねに確実に勝つ攻撃方法をとりました。敵兵力を分断させ、すばやく行軍して、敵のいちばん弱いところを攻撃したのです。やがて、オーストリア軍はナポレオン軍によってイタリアから追放され、講和を結ぶことを余儀なくされました。
イタリアでオーストリアに勝ったことは重要なことでしたが、ナポレオンはパリにいる政沿家にとって、勝利は、経済的あるいは他の利益をもたらすときだけが重要であるということを知っていました。ナポレオンは、部下たちの面倒をみながらも、パリにいる政治家のことも忘れませんでした。
フランスの金庫はほとんど空でした。ナポレオンは、打ち負かした敵に6000万フラン以上もの賠償金を支払わせ、フランスに送りました。このため、ナポレオンはフランス政府内でも人気があがりました。ナポレオンはまた、戦利品として、非常に貴重な秘蔵物をフランスの美術館や博物館にもたらしましたので、フランスの人びとはナポレオンに感謝しなければならないでしょう。

 ナポレオンは、フランスでもっとも高名な人となりましたが、フランスに帰ってみると、政治家たちはナポレオンの人気をねたむだけでなく、恐れさえしていることがわかりました。しかし、ナポレオンはまだそのような政治家たちを追い出す時期ではないと知っていましたので、目立たないようにしていました。
オーストリアとの講和条約で、現在のベルギーはフランス領となりました。これは、ドーバー海峡の海岸地帯はすべてフランスのものとなることを意味します。イギリス政府は有名なビット首相が政権をとっていましたが、こんなことを承知できるはずがなく、この講和条約を拒否しました。
そのために、イギリスは依然としてフランスと戦争状態にありました。イギリスへの侵略を決めたフランス政府は、この計画に関しての報告をするよう、ナポレオンをブローニュに送りました。これは、政治家たちにとっては、ナポレオンをバリから離す、よい方法でもありました。
ナポレオンは、ブローニュで3週間過しました。彼はイギリス艦隊がドーバー海峡を手中におさめているかぎり、イギリス侵略は不可能だと判断しました。ナポレオンは、海峡を横断するには7、8時間もかかり、それも夜間だけしか横断できないことを、フランス政府に報告しました。しかし、英国をだしぬくための準備は続けられました。

 その間にナポレオンは、イギリスを攻撃する他の方法を提案しました。エジプトを征服してインドへのルートを遮断するよう進言したのです。こうすれば、イギリスと東洋との貿易に支障をきたすことになり、イギリスは講和を結ばざるを得ないとナポレオンは考えたのです。
これは危険な作戦でもありました。イギリス軍のネルソンは艦隊を率いて地中海におり、ナポレオンは、このイギリス艦隊にフランス艦隊はとても及ばないことをよく知っていました。それに加えて、フランス艦隊には4万人もの軍隊を運ぶための輪送船が必要でした。このような状況にもかかわらず、フランスの遠征隊は1798年5月19日に出航し、エジプトに無事に上陸しました。ネルソンは5月の短い夜に、わずか5マイルの差でフランス船団を逃してしまったのです。
エジプトに上陸するや、ナポレオンは大ピラミッド近くの戦いで勝利をおさめ、上陸後2か月でカイロに入城しました。しかし、8月にネルソンは、フランス船団がアポカー湾に停泊しているのを発見し、撃滅してしまいました。このために、ナポレオンとフランス軍団はフランスから切り離されてしまいました。
ネルソンとフランス船団の撃滅については、この伝記シリーズの他の本で読むことができます、1年半後、なんとかフランスに帰ったナポレオンが、そのとき持ち帰った、あの有名なロゼッタストーンについても、このシリーズの本に書かれています。

 ナポレオンは、またもや幸運にめぐまれました。1799年10月にナポレオンは小さなフリゲート艦で、イギリス艦隊の監視をかすめて逃げのびたのです。フランスに上陸すると、ナポレオンは共和国の救世主として至るところで歓迎されました。
これにはちゃんとした理由がありました。イタリアでのナポレオンの勝利は、無能な将軍のために無に帰し、フランス国内では混乱と不満がうずまいていたのです。国を治めるべきフランス政府の人たちは、お互いに陰謀をめぐらしていました。国内では王党派は王国再建を望み、国外ではドイツ軍がフランスへの侵略をうかがっていました。
ナポレオンは、もう一度好機を待ちました。それから、タレイランという有名なフランス人の援助を得て、フランス政府閣僚を免職しました。数週間のうちに、ナポレオンは第一執政となり、フランスの支配者となりました。
ナポレオンは、さらに手にした権力を有効に行使して、多くの偉業をなしとげ、それは現在にまで引き継がれています。ナポレオン法典と呼ばれる新しい法律を作ったり、フランス銀行を創立しました。また、ナポレオンが創始したレジオンドノール勲章は、現在もなおフランス国民に与えられる最高の勲章となっています。しかし何よりも、ナポレオンは、秩序を回復し、フランス政府を回復させました。

 フランス国民は戦いに疲れていました。国民は平和を願い、いかなる国もナポレオンの力を恐れて攻撃してこないことを望んでいました。しかし、国民の希望はかなえられませんでした。イギリスのピット首相は講和を拒否し、イギリスから多額の大軍資金の援助を受けたオーストリアは、ふたたび軍隊を戦場に送りました。ナポレオンも、オーストリア軍に向けて遠征せざるを得なくなりました。
第一執政就任後7か月目に、ナポレオンは軍団を率いての大サンベルナール峠を越えました。数千人の兵士と馬とラバは、悪条件と戦わなければなりませんでした。ナポレオンはこのときの様子を 「氷と雪、強風やなだれとの戦いでした」 と書いています。それでも、兵士たちは、苦難をともにする不屈の将軍に勇気づけられながら、峠を越えてイタリアに入りました。ナポレオンは、このときの様子を 「雷電のように」 と書いています。
ナポレオンは、砲兵士官であった昔のことを忘れませんでした。兵士たちが攻撃するときは、つねに大砲を使いました。大砲を取りはずして木のそりに乗せ、数百人もの人が引っぱって峠を越えなければなりませんでした。
ナポレオンは、イタリア北部の首都ミラノに進軍しようと決めていましたが、その前にオーストリア軍を撃破しなければなりません。マレンゴの戦いは6月に交えられ、ナポレオンは勝利をおさめました。この戦いは、ナポレオンの軍人生活のなかで、もっとも困難で苦しい戦いでした。

 ナポレオンが31歳の1800年には、オーストリア国王をすでに2度も降伏させていました。ナポレオンは以前にもましてフランス国民の英雄として帰国しましたが、フランス国内の政治家たちは、ナポレオンをおとしいれようとしていたことを知りました。彼らは、ナポレオンがイタリアで戦死すれはよいと思っていたのです。しかし、ナポレオンが意気揚々と凱旋すると、政治家たちはちりちりに逃げ去ってしまいました。
オーストリアとの和平は、1年後にイギリスの調停で成立したアミアン条約によってもたらされました。しかし、どちらの側も、これが長続きするとは考えていませんでした。イギリス艦隊は依然として海を制圧し、ナポレオンは陸を制圧していました。両国ともお互いを信用していなかったのです。
ナポレオンは、フランス政府から追い出した人たちをも信用していませんでした。ナポレオンの第一執政としての任期が終れば、その後任をめぐって、彼らがお互いに争うことは明白でした。もし、そうなった場合、フランスは市民戦争になるかもしれません。
なすべきことは1つだけでした、そして、ナポレオンはためらいませんでした。ナポレオンはイギリスのスパイと考えられる刺客に暗殺されるところでしたが、間一髪のところで助かりました、それを知ったフランス国民はたいそう怒りました。フランス国民は、ナポレオンなしでは、フランスはまた悪政におちいることを知っていたのです。フランスの国民投票では、350万人がナポレオン・ポナパルトを終生の第一執政にすることに賛成の投票をしました。これが、のちにナポレオンがフランス皇帝になる第一歩でした。

 ナポレオンは、1804年12月2日にフランスの皇帝となりました。たい冠式は壮麗に行われました。パリのノートルダムの大寺院は花が咲いたようににぎわいました。士官たちの華麗な軍服や、ナポレオンの華麗な衣装は比類のないものでした。
新しい皇帝のたい冠のために、法王はパリに来ました、しかしへたい冠式がいよいよというとき、ナポレオンは、王冠を法王の手から取りました。
そして、自分の手で王冠をつけました。これは、ナポレオンが、他人からでなく自分の努力で王冠を勝ち得たことを世界の人に示すためでした。
皇帝には延臣が必要でしたが、ルイ十六世の廷臣たちはすべて処刑されたり、フランスから追放されていました。ナポレオンは、自分の友人や親せきを王子や公爵、伯爵や男爵に任命して新しい貴族階級を確立しました。
ナポレオンが第一執政になるときに協力してくれたタレイランは、ベネベント公になりました。
昔は貧しくよれよれの服を着て、ブリエンヌの士官学校ではコルシカなまりのフランス語をバ力にされていた少年が、34歳の若さでフランスの皇帝となったのです。ナポレオンの母親は息子の壮麗なたい冠式を見守りながら、頭を振って 「長続きしてくれれば……」 とつぶやきました。

 ナポレオン・ボナパルトの野望は、頂点に達しました。これ以上進めません。ナポレオンはフランスの皇帝の座を占めましたが、地位を持続させるには、ヨーロッパの君主とならなければならないことを知っていました。
フランス国民は、秩序ある政府と新たな繁栄を喜んでいました。しかし、ナポレオンだけは将来の危険を予知していました。イギリスが陰に隠れて海を制圧したり、ヨーロッパの各国に資金をつぎこみ軍備を拡張していたのです。ナポレオンは、まずいちばんの強敵であるイギリスを侵略して打ち負かそうと決めました。
ナポレオンは、2年間にもわたってイギリス海岸を臨むフランスの港に小さな船を集め、いつでもイギリスに移送できる態勢でブローニュの近くに陸軍を野営させました。イギリスの陸軍も攻撃態勢を整えていましたが、主要な防衛は、海軍にたよっていました。ナポレオンが海峡の制海権を握れなければ、数千人の兵士を横断させることは不幸につながることでした。
フランス艦隊はイギリス船を海峡の外にさそい出そうとしましたが、必ず数隻は海峡に残っているのです。ついに両艦隊はトラファルガーで出会いました。フランスとスペインの合同艦隊は、イギリスのネルソンの手により敗北し、イギリスを征服するナポレオンの夢は消え去りました。

 ナポレオンは水兵ではありませんでしたので、海戦のことはまったくわかりませんでした。ナポレオンの計画は再三イギリス艦隊に狂わされてしまいました。ナポレオンは、怒りをこめて 「木が浮くところには、必ずイギリス人がいる!」 と叫びました。私たちにとって幸いなことに、ナポレオンの言葉はあたっていました。
トラファルガーの敗北以前でさえも、ブローニュに野営していた陸軍は、他の地方でも必要でした。それは、オーストリア、プロシア、ロシアがフランスに戦いを挑みそうな状態だったからです。そしてナポレオンは、先制攻撃に出ることにしました。敵がとても信じられないほどの速さでヨーロッパを横断し、オーストリア軍、プロシア軍、それにロシア軍をつぎつぎに打ち破り、世界じゅうをあっといわせました。これで征服されていないのは、イギリスだけとなりました。
ナポレオンはイギリスと陸上で戦うことができませんでしたので、貿易をじゃましようとしました。ヨーロッパ各国にイギリス商人と物品の売買をしないよう約束させました。
すべての国はやむなく同意し、ロシア皇帝との会談がニエーメン川の中央に浮かぶいかだの上で行われ、同意の確約が取りかわされました。それは奇妙な会談でした。ロシアのアレキサンダー一世と、フランスのナポレオン一世の両皇帝は、友好的に会談しましたが、2人ともお互いに信用しておりませんでした。その後まもなく、アレキサンダー皇帝はナポレオンとの約束を破りました。

 この間ずっと、ヨーロッパ全土の征服を考えていたのは、ナポレオンただ1人だったということを思い起さなくてはなりません。これはあまりにも大事業でした。フランス以外のすべての国は、ナポレオンを憎み報復しようとしていました。ナポレオンは軍人としての才能を発揮して、各国を征服しましたが、征服したすべての国にいることはできませんでした。征服した国を他の者にまかせてナポレオンが立ち去ると、その国の人たちは反乱を起しました。
フランスに秘密でイギリスと交易をする国々は、ますます多くなりました、そのために、ナポレオンは、大陸の港に堂々と入ってくるイギリス船を停止させるために軍隊を送りました。
ナポレオンは、兄のジョセフにスペインの王位をゆずりましたが、スペインが最初に公然と反乱を起した国でした。スペイン国民はジョセフを受け入れることを拒絶しました、スペインで苦戦している部下の将軍を救うために、ナポレオンは、やむなくピレネー山脈を越えて進軍しました。ナポレオンがスペインにいる間に、オーストリアはふたたび宣戦を布告しました。
ナポレオンは、馬の速度が人の進める最高の速度という時代に、また驚異的な速さでヨーロッパを横断し、バグラムの戦いで、またオーストリア軍に勝ちました。今度こそ、オーストリアを確実におさえようと、ナポレオンは決心しました。そして、ジョセフィーヌと離婚して、オーストリア国王に強いて国王の娘のマリー・ルイズと結婚しました。

 コルシカ生れの少年だったナポレオンは41歳で、ヨーロッパでもっとも誇り高い王室の娘と結婚しました。戦争で王侯を制圧したものの、コルシカの冒険家と自分をあざけり笑っていた王侯たちと、これでついに同等になれたと感じました。
王侯たちの考えはちがっていました、ティルジットの盟友、ロシア皇帝アレクサンダーは、ナポレオンを裏切って、ナポレオンの疑いがまちがっていなかったことがわかりました。ナポレオンはロシアで戦うことは不利だと思っていましたが、前にフライドランドでロシア軍に勝っていたため、今度も勝てるという自信がありました。
ナポレオンは、今までにない大軍を率いてロシアに進攻しました。今にも対抗するロシア軍が現れるだろう思いながら、ナポレオンが目にしたのは、全くなにもない田園地帯ばかりでなく、すでに焼きつくされた村や町でした。ナポレオンはボロデノの戦で勝利をおさめましたが、ロシア軍は依然として退却を続けました。
ロシア騎兵隊のコサック兵と数回こぜりあいをしただけで、ナポレオンは難なくモスクワに到達しました。ナポレオンは、ロシア軍が講和を申し込んでくるにちがいないと考えました。翌朝目が覚めると、モスクワ市内は炎におおわれていました。ナポレオンは1か月待ちました。ロシア軍から何の合図もありません。時は、10月も半ばを過ぎ寒い冬が迫っていました。このため、ナポレオンはやむなくモスクワから退却さぜるを得ませんでした。

 モスクワからの退却は、歴史上もっとも悲惨な軍事上の災難の1つとなりました。フランスから1000マイル以上も遠く離れたところから、ナポレオンの陸軍は、吹雪と零下70度(華氏―摂氏約21度) を越える寒さのなかを雪にうもれた道を行進しなければなりませんでした。6月にはニエーメン川を渡った者のうち、フランスに帰り着いた兵士は、数人にすぎませんでした。
ナポレオンは軍隊をあとに残して、凍りついた雪の上を馬を取りかえながら、日夜そりを走らせてパリに帰りました。フランスに帰ったナポレオンは、ただちに新しい軍隊を集めました。しかし、ヨーロッパ諸国はナポレオンがロシアに敗北したのをみて、反抗しました。ナポレオンは次々とその国々を破りましたが、次第にパリへ追い返されはじめました。
1814年3月、ついに破局がやってきました、ナポレオンはフランス皇帝の座を失ったのです。コルシカから来た少年の、目を見張る栄光の生涯が今や終りかけました。45歳になったナポレオンは、いまだ依然としてヨーロッパでもっとも偉大な将軍でしたが、ナポレオンの築きあげた帝国が崩壊したのです。ナポレオン・ボナパルトは破滅しました。オーストリアやドイツ、ロシアやイギリスの支配者たちは、エルバ島に追放されていくナポレオンの船が霧の中に消えていくのを見守りながら、そう思いました。
これでナポレオン・ボナパルトの一生は終ったと思いました。

 ナポレオンは1年近くの間、エルバ島に留まりました。フランスでは、ルイ18世が国王となりましたが、フランス全土の除隊兵士たちは 「ちび伍長」 がふたたびフランスへ戻ってきて、新たな勝利に導いてくれるよう望んでいました。やがて、突然ナポレオンはフランスにやってきました。
ナポレオンがフランスを横切って通る途中、人びとは群がり歓迎しました。ナポレオンを捕えるためにパリから軍隊が送られました。軍隊が近づいてくると、ナポレオンはただ1人、前に出て、軍隊に向かいました。ナポレオンを捕えにきた兵士たちは、数百もの戦いに勝利を収めた英雄を見ると、全員が 「皇帝万歳!」 と叫びました。ナポレオンは、自分を逮捕するために送られてきた軍隊の先頭に立ってパリへ入りました。ルイ18世は、命からがら逃げだしました。
そのころ、イギリスを含むヨーロッパ各国は、ナポレオンはエルバ島にいるものと安心して、陸軍を解散していました。ナポレオンの唯一の望みは、各国が除隊兵士を召集する前に、まだ武装していない国々を打ち破ることでした。
ナポレオンは、すぐさま古参兵の軍隊をおこしました。ナポレオンは、戦場には2つの敵がいるが、その2つは15マイルほど離れていることを知っていました。1つの軍団はウェリントンが指揮して、ブラッセルの南方10マイル離れたカトル・ブラにおり、もう1つはブルーカーに指揮されたプロシア軍が、その南東15マイルのリニィの村にいました。ナポレオンは、この2つの軍団が合流する前に、攻撃してしまおうと決心しました。

  ナポレオンは体の具合が悪く、部下の将軍たちは数多くの誤りをおかしました。ウェリントンはカトレ・ブラから退却を余儀なくされ、ブルーカー軍もリグニーから追い払われましたが、これまであったような勝利はもたらされませんでした。ナポレオンにとって、不運なことにブルーカー軍は、ウェリントン軍と反対方向に退却したと信じていましたが、ブルーカー軍は、実際には北に向かい、ウェリントン軍と合流しつつあったのです。
イギリス軍は、ブラッセルから南方数マイルのワーテルローの村の近くに陣地を張っており、ナポレオンが知らないうちにブルーカー軍は、東方7〜8マイルのワブルの近くにいました。ワーテルローの戦いは、イギリス軍陣地の前面にある農家を奪取しようとする企てで、始まりました。この試みは失敗し、ナポレオンは今度はウェリントン軍の陣地に騎兵隊と歩兵を率いて攻撃しました。イギリス軍は、銃剣を持った兵士で四角に陣地をとり、フランス軍の再三の攻撃にもかかわらず強固に守り続けました。
プロシア軍が戦場に到着したのは、その日の夕方でした。プロシア軍の到着で、イギリス軍の勝利は確実なものとなりました。
とうとう.ナポレオンはイギリス軍に降伏し、その後、フランスから遠く離れた南大西洋の孤島セント・ヘレナ島で、イギリス兵に警備され、島の回りにはイギリス船がパトロールするなかで一生を送りました。ナポレオンは、自由の身にするには、あまりにも危険で偉大な男だったのです。


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