レディバードブックス100点セット
 

 

ジャンヌダルク

 このシリーズのほかの本で、あなたはヘンリー5世と、1415年のアジンコートの戦いでフランスに勝ったイギリスの話を読まれたことと思います。
この勝利と、ヘンリーによって勝った他の戦いで、イギリスはフランス内で大きな力をもつことになりました。へンリーはフランス王の娘と結婚し、フランス国王の後継ぎに指名されました。
しかし、ヘンリーが35歳で亡くなってしまい、息子は父のように戦いが上手ではありませんでした。イギリス軍は、しばらくの間フランス北部をもちこたえていましたが、ヘンリー5世が得たもののほとんどすべてを30年間で失ってしまったのです。
これは、ローレイヌのドムレミという小さな村から来た、いなか娘の力によるものでした。娘の名はジャンヌといい、歴史上ジャンヌ・ダルクとして永久に記憶されています。
当時のフランスがどんなふうだったか想像するのはむずかしいことです。
誰1人として安全ではありませんでした。イギリス軍、フランス軍、そしてなかにはどちらにも属していない兵士たちが、農村を焼き、荒れはてた地方をさまよっていました。そんななかのドムレミという村に、ジャンヌは住んでいたのでした。家畜でさえ警報の鐘の意味がわかり、鐘が鳴ると本能的にかくれ場所へ走っていきました。

 子どものときのジャンヌは、他の子どもとたいして変っていませんでした。ジャンヌは、みんなと同じように遊び、ドムレミの村を今でも取り囲んでいるすばらしい森や野原を散歩しました。父親の農場で動いて家畜の世話をし、冬の夜には糸紡ぎや縫いものを習いました。
ジャンヌは、もの静かな信心深い少女で、両親といっしょに教会へ行くのが好きでした。ほかの子どもたちが村の野原で楽しく遊んでいるとき、ジャンヌは村の教会に1人ですわっていることがときどきありました。ほかの子どもたちは変に思いましたが、ジャンヌは意志の強い健やかな少女でしたので、気にしませんでした。
30年後、ジャンヌを知っていた村の人びとは、ジャンヌがどんな少女であったか聞かれました。今からずいぶん昔のことになりますが、村の人びとが言った記録が残っています。その記録はもちろん、彼らの言葉のフランス語で残っています。
「ジャンヌは、ドムレミの村じゅうの、誰にも好かれていました。ひかえめで、質素で、つつしみ深く、喜んで教会へ行きました。働き、奉仕し、畑をたがやし、また家事もよくしました」

 このもの静かな小娘が18歳にもならないうちに、フランスでもっとも有名な女性になるということを知っていれば、ドムレミの素朴な人たちは、いったいどんなにおどろいたことでしょう。
ジャンヌは教会の鐘の音を聞くのが好きでした。ある日、静かな庭にいると、鐘の音が聞こえてきました、ジャンヌは、鐘の音のなかに自分に話しかける声が聞こえたように思いました。ジャンヌは、まだ13歳でしたので、はじめて聞えてきたときのことを 「とても恐かった」 と言っています。
鐘の音のなかの声はやさしく親切でした。いつも行いを正しくし、そして、ひんぱんに教会へ行くようにと話しました。ジャンヌには、それ以外の望みはありませんでしたし、教会に行くのは大好きでしたから、このことは特別な教えではありませんでした。
しかし、その声を聞いているうちに、ジャンヌは不思議な幻影を見はじめました。最初のころ、その姿は霞を通して見るようでしたが、あとでジャンヌは次のように言っています「私は今あなた方を見ているようにはっきりと、その幻影をこの目で見たのです。それらが消えてしまうと、泣いてしまうほど悲しい気持になったものでした」 ジャンヌは自分に語りかけるその声をとても好きになったので、鐘つきに、ささやかなプレゼントをよく持っていったほどでした。

 ジャンヌが16歳になるまでに、その幻影は聖マイケルとローレイヌの2人の守護聖者、聖カトリーヌと聖マーガレットのように思われてきました。
その聖者たちは、ドムレミのいなか娘に新しいお告げをしました。そのお告げは、ジャンヌこそ、憎きイギリス軍を海へ追いやり、祖国の救世主になる人だというものでした。ジャンヌがフランス軍を勝利にみちびき、若い王のシャルル7世を、リームスで王位につかせることになっているというのです。
フランス軍の兵士たちはいたるところでイギリス軍に負け、フランスの人びとはすっかり落胆してやけになり、望みもなくしていたのです。どの畑でも作物は収穫されないままくさっていき、すべての商売が停止していました。
素朴ないなか娘が、その地方を恐怖におとし入れている荒々しい大勢のイギリス兵に何かできるなんて、考えられないことのように思えました、ですから、ジャンヌは初めのうちは、不思議な声のいうことを信じようとしませんでした。しかし、年老いた予言者が現れ、ローレイヌの村はずれから来た娘がいつかフランスを救うだろうと、ふれ回っていました。ジャンヌもたぶんこの予言を聞いていたことでしょう、ジャンヌは鐘の声を聞くうちに、自分を選ばれた娘と思うようになりました。

 オルレアンの町は、1万人のイギリス軍に囲まれていました。イギリス軍はその町を占領すれば、フランスの南半分を征服する道が開けられるのでした。
不思議な声は、ジャンヌにオルレアンに行ってイギリス軍を追い出すようにと念じるのです。
ジャンヌは、最初はわけがわからず困ってしまいました、と言っています。ジャンヌは困りはて、ドムレミの村で指導的役割を果していた父親に相談しました。ジャンヌはたった16歳でしたが、いなかでしつけられた、常識のある少女でした、しかし、父親には彼女はまだ子どもだったのです。
父親はジャンヌを笑って、おそらくばかなことを言うんじゃないと言ったことでしょう。
ジャンヌは、家畜の世話や畑の仕事にもどっていきましたが、不思議な声はジャンヌに行動を起すよう、うながし続けました。ジャンヌはふたたび父のところに行きました。今度は父親は怒ってしまいました。そんなばかなことをさせるくらいなら、自分の手でおぼれ死にさせてやる、と言いました。もちろん父親は決してそんなことをしようとは思っていませんでしたが、自分の娘の言っていることがばかばかしく悪いことだと思ったのです。

 ジャンヌはたいへん信心深い娘でしたので、神が自分の内の声を通して話しかけているのだと堅く信じていました。ですから、神の声に背くなどということはしたくなかったのです。
ドムレミから10〜12マイル離れている、壁に囲まれたボークーラーの町は、フランス貴族ロベール・ボドリコールに指揮されていました。ジャンヌはロベールのところへ行って、助けを求めようと決心しました。ジャンヌは、父が決してこのことを許してくれないと知っていましたので、まずボークーラーの近くの村にいる母親の親せきのところへ行って、滞在しました。
ジャンヌは、不思議な声が自分に命じたことを親せきの人に話しました。親せきの人は、とても信じられませんでしたが、ジャンヌの気持はゆるがず、あとにひきませんでした。結局ダ・ボドリコールのところに連れていくことを承知しました。
ロベール・ダ・ボドリコールは、ジャンヌとかかわりあうことを拒否しました。赤い毛織物の服を着た、素朴ないなか娘から、私はフランスを救うために神から送られてきたんですと言われたとき、このフランス貴族がどんなにびっくりしたか、あなたにも想像がつくことでしょう。「娘の耳をひっぱたいて、家に送り帰せ」 と、彼はラクサールに言いました。しかし、ジャンヌはあきらめませんでした。フランス軍は、いたるところでイギリス軍に打ち負かされていました。何とかしなければならなかったのです、そしてとうとうダ・ボドリコールも、ジャンヌの言葉に耳を傾ける気になってきました。

 当時は、迷信深い時代でした。人びとは、いぜんとして神の奇跡や魔女の存在を信じていたのです。ロベール・ダ・ボドリコールは、神のお告げによってほんとうにジャンヌが送られてきたのだとフランスの兵士たちに信じさせれば、兵士たちはいくらかでも勇気がわいてくるにちがいないと思いました。
ちょうどそのころ、フランス軍は 「ヘリング(ニシン)の戦い」 といわれる戦いに敗れたところでした、その戦いの名は、オルレアン郊外のイギリス陣地に向かうニシンを積んだ護送隊を阻止しようとして失敗したことから、そう名づけられたのです。市内のフランス軍は、飢えのために降服を申し出ています。ダ・ボドリコールには、ジャンヌが最後の望みのように思われました。
シャルル7世は、ボークーラーから300マイル離れたシノンにいました。ジャンヌがそこに行くには、イギリス軍と、イギリス側についてフランスと戦っているブルゴーニュの兵に占領されている地域を通って、フランスを横断しなければなりません。それは、非常に危険な旅でした。
ジャンヌは、2人の若いフランス貴族に護衛されて馬で出発しました。不思議な声は、ジャンヌに男装していくよう命じましたので、ジャンヌは髪を短くきり、黒っぽい上着と長いくつ下を身につけて出かけました。ロベール・ダ・ボドリコールは、ジャンヌに古い刀をあたえ 「行くがいい、そうして、ようすを見てみよう」 と言いました。その見送りは、あまり勇気づけるようなものではありませんでした。

 季節は冬でした、一行は、道といっても細いわき道を、イギリス兵をさけながら旅を続けなければなりませんでした。一行は、大きな川を2つ渡らなければなりませんでしたが、その橋には敵の見張りや警備隊がいるのです。
旅は11日間もかかりました。泊まる場所をみつけるのは非常に危険でしたので、一行は野宿して過さなければなりませんでした。夜つゆにぬれ、疲れた体で、一行はシノンの小さな町に到着しましたが、国王に接見するのは並たいていのことではないとわかりました。
シノンの町は、ジャンヌダルクが城に入るために馬を降りたときからほとんど変っていません。現在の古い切妻屋根の家々や、急な坂の曲がりくねった街路も、500年前、ジャンヌが見たものと同じなのです。
城は、今では荒れはて、ロアール川の支流のヴィエヌ川の高いがけの上に建っています。イギリスの国王、しし王リチャードについては、みなさんもこの伝記シリーズの中の1冊で読まれたと思いますが、リチャード王が自分の宮殿としていたのが、この城でした、ジャンヌの時代よりも200年ほど前のことです。廃墟ょに残る一室の高い壁には、この部屋でジャンヌ・ダルクが初めてシャルル7世と会った情景を彫った石があります。

 シャルルは、心身ともに弱かったので、何もかも相談役たちの思いのままになっていました。最初、相談役たちはジャンヌを彼に接見させることを拒否していましたが、人びとがジャンヌの使命のうわさを聞きつけていたので、ジャンヌを拒否することは危険だと思うようになりました。
相談役たちは誰も、ジャンヌの神の声の話を信じていませんでした、彼らはジャンヌの評判を落そうと、シャルルを変装させて廷臣にし、他の若者を王座につかせました。こうして、ジャンヌの神の声がほんとうかどうか、ためそうとしたのです。もし、ジャンヌの言っていることがほんとうなら、だまされたりはしないはずだと思ったのです。
ジャンヌは、ほこりまみれの旅じたくのままで、豪華な大広間に連れてこられました。ジャンヌは、華麗な服装をした美しい貴婦人たちに目を奪われながら、あたりを見まわしました。廷臣たちは笑っていました。これで、この娘のばかばかしい話もおしまいだと思いました。
その場にいあわせた人たちの書いたものによると、いなか娘はほほえみを浮かべて、王座にいた若者に向かって頭を振ったとあります。そして、くるりと向きを変えると、まっすぐに変装したシャルルの前に出てひざまずき、こう言いました 「私は神の使者です、あなたこそ本当のフランス国王となられるお方だということをお伝えにまいりました」

 シャルルは、ジャンヌがほんとうに自分の王国を取りもどすために送られてきたことを確信しましたが、相談役たちはそれでもまだ信じようとしません。相談役たちは、知識人や教会の高僧に、ジャンヌをもっと試験させるべきだと言い張りました。
おそらくジャンヌには、どうしてみんながこんな大騒ぎをするのか不思議に思えたことでしょう。ジャンヌは、素朴ないなか娘の正直さで、すべての質問に答えました。「私は、読み書きはできませんが、神の声が、オルレアンの囲みを解いて、リームスで国王のたい冠式をするよう命じています」 と、彼女は言いました。
普通のいなか娘でしたら、気後れして恐くなってしまうような場にジャンヌは立たされました。ジャンヌは当惑も恐れもしませんでした。たいそう荒々しい粗野な話し方の試験官が、神の声はどんなアクセントでしゃべるのか、とジャンヌを困らせるつもりでたずねました、ジャンヌは笑いながら 「あなたよりもじょうずに話します」 と答えました。
ジャンヌの純真な信仰は、高僧たちを納得させましたが、シャルルをとりまいている相談役たちは、信じませんでした。しかし、フランス側の状況はますます悪くなるばかりでしたので、相談役たちはどんなことでもやってみようという気になっていました。相談役たちはジャンヌを人をまどわすいなか娘ぐらいにしか思っていませんでしたが、兵士たちがジャンヌをお守りのようなものと考えるかもしれないと思ったのです。そこで、相談役たちは、ジャンヌをオルレアンに送ることを承知しました。

 フランス兵に印象づけるために、ジャンヌによろいと紅白の上着が与えられました。そして、キリスト像を描いた旗がジャンヌの前にかかげられました。ジャンヌは 「頭の先から爪先まで神々しく」 見えたと言われています。
ジャンヌ・ダルクのように歴史上有名になった人には、多くの伝説や話があります。そのなかには、ほんとうのこともあるし、そうでないものもあるでしょう。
ジャンヌ・ダルクについて語られている伝説の1つに、乗馬用に与えられた馬の話があります、その馬は、ジャンヌがボークーラーから乗ってきた馬よりも、ずっと元気な軍馬でした。飛んだり、はねたりして、ジャンヌを寄せつけないほどの荒馬だったのです。ジャンヌは 「十字架のところに連れていきなさい」 と言いました。馬は、市場にある十字架のそばに連れていかれると、おとなしくなってしまいました。
また、このときよりも約600年前、回教徒からフランスを救った英雄マルテルの刀についての伝説があります。ジャンヌは、数百年もの間、フィエルボワの教会の祭壇のうしろにかくされているその刀を持ってきてほしいと頼みました。誰もそんな刀のことは知りませんでしたが、祭壇のうしろを掘ってみると刀が出てきたので、ジャンヌのところへ持っていきました。

 そうしてジャンヌは、護衛といっしょに、シノンとオルレアンの中間にあるブロアに送られました。ここで、ジャンヌは6000人の兵士の指揮をとることになったのです。シャルルの相談役たちは、17歳のいなか娘が軍隊を指揮してみれば、恐くなって、ドムレミに逃げ帰ってしまうだろうと思っていたのです。
ジャンヌはそんないくじなしではありませんでした。兵士たちは、ジャンヌを見て、さぞかしおどろいたことでしょう、しかもこの娘の命令に従えというのです。さらに、全員まず教会に行くようと言われたときには、どんなにおどろいたことでしょう。
司令官の1人は、ラ・イールという名前の、ガスコーニュから来た人でした。ラ・イールは勇敢でりっぱな司令官でしたが、他の兵士たちと同じように悪い言葉をたくさん使っていました。ジャンヌがなおすように言うと、ラ・イールはびっくりして服従しました。
イギリス兵はこのことをばかにしていました。イギリス兵は、ジャンヌをフランス国王を魔法にかけた魔女と思っていたのです。それと同時に、不安でもありました。1428年ごろには、魔女には害悪を与える力があるのだと誰もが信じていたのです。
“へンリー六世”という戯曲の第1幕では、シェークスピアは、そういうイギリス人の見方でジャンヌを扱っていて、フランスの悪魔のように描いています。

 読み書きのできないジャンヌは、ブロアから出発する前に、イギリス国王と将軍あてに手紙を書きとらせました、手紙の内容は、神のお告げによってフランスを正当な国王に返すよう自分がつかわされたことと、占領したすべての町を返すよう要求するものでした。
返事がないので、ジャンヌは軍隊の先頭に立ち、オルレアンに向かいました、オルレアンの町のまわりには、イギリス軍が 「城さい」 と呼んでいる堅固なとりでを作りあげていました。ジャンヌは、イギリス軍を避けて兵士たちといっしょに町へ入ろうと計画していました。そうすれば、守備隊がさらに6000人ふえることになるので、イギリス軍を攻撃するのに十分な兵力となると思ったのです。
ジャンヌはオルレアンに着いてから、フランス軍司令官たちにだまされていたことに気づきました。司令官たちは、ジャンヌが自分たちを指揮することにがまんができなかったのです。司令官たちはジャンヌが失敗するようにと、ロワール川の南側の方へジャンヌを導いていきました。オルレアンは北側にあって、逆風のために広い川を渡るのはほとんど不可能でした。
ところが、突然風向きが変ったのです。このためにイギリス軍は、ますますジャンヌが魔女にちがいないと思いました、ジャンヌが、魔法の力で自分に有利になるように風向きを変えたと思ったのでした。

 ジャンヌは、包囲された守備隊のために、もっとも必要な食糧と弾薬を持ってきていました。兵士たち全員を運ぶには舟が足りなかったので、ジャンヌは大部分の兵士たちに、川下にある橋を渡っていくよう命じました。
ジャンヌ自身は舟で川を渡り、大勢の歓呼の声に迎えられました。ジャンヌの評判はすでに伝わっていましたので、人びとはジャンヌには神がついていると信じるようになっていたのです。
教会の鐘が鳴りひびき、人びとの歓声を聞いたイギリス軍は、迷信じみた恐ろしさにおののきました。翌朝、フランス軍が川を渡り、町へ入っていくと、イギリス軍は 「魔女」 が恐ろしくて敵軍を止めることができませんでした。
当時の軍隊は、お互いに接近して対決していました。ジャンヌは、殺し合うことを考えるだけでもいやでしたので、川をはさんでイギリス軍の司令官に呼びかけ、囲みを解いて帰るように言いました。しかし、返ってきたのはあざけりだけで、ジャンヌは悲しそうに自分の陣地へ帰っていきました。
ジャンヌは戦いをきらっていましたが、部下の兵士たちの誰にもおとらないほど勇敢に戦ったのでした。ジャンヌは、刀を振って何度も部下を激励して導きましたが、実際に刀を使った記録はありません。ジャンヌには、その必要がなかったのです。

 イギリス軍を追いはらうには、オルレアンの町を包囲したイギリス軍の城さいを占領しなければなりませんでした。ジャンヌが休息している間に、オーギステというフランス軍の指揮官が城さいの1つに攻撃をかけました。
戦いの音で目を覚したジャンヌは、急いでよろいを身につけて戦いの音のする方へ行きました。
イギリス軍の方が優勢で、ジャンヌが着いたときには、フランス軍は今にも退散しようとしているところでした。しかし、ジャンヌの輝くよろいや旗、それにもましてジャンヌの姿を見たフランス軍は、勢力をもりかえしました。「聖女だ! 聖女だ!」 と叫びながら、イギリス軍にたち向かっていったのです、イギリス軍は魔術をこわがって、われ先にと逃げ出してしまいました。
2日後、ジャンヌは、今では忠実になった兵士たちを率いて、もう1つの城さい、ツーレルへと向かいました。ジャンヌは攻撃の先頭に立って、とりでの壁に最初のはしごをかけました。ジャンヌがはしごを登ったとき、1本の矢が肩に当たって負傷してしまいました。
傷の手当を受けに、ジャンヌは後方に運ばれました。フランス軍は、傷のいたみで弱くなったジャンヌが運ばれていくのを見て、勇気を失ってしまいました。しかし、ドノワという指揮官が退却を命じようとしたときに、ジャンヌはふたたび現れて、その城さいを占領してしまいました。

 オルレアンの包囲は終りました。勇気をくじかれ、魔術にたち向かってもむだだと考えたイギリス軍は、立ち去っていきました。町の中は喜びにわきかえりました。教会は、ジャンヌ自らに導かれてきた人たちであふれ、みんな神に勝利の感謝をささげました。
フランス国民は、ジャンヌをねたむ数人の相談役と高僧をのぞいて、ジャンヌが国を救うために奇跡的に送られてきたと信じていました。兵士たちは、ジャンヌの後ならどんなところでも喜んでついていきます。それよりももっと重要なことは、イギリス軍は、フランス軍を先導しているのが 「魔女」 だとわかると、すっかり臆病になって、逃げ去ってしまうことでした。
ジャンヌ・ダルクによってオルレアンが解放されたことを、オルレアンの町に住んでいる人たちは決して忘れたことがありません。ジャンヌを記念して像が建てられ、オルレアンの町では毎年、包囲解放を祝って祭が行われています。
とくに記念すべきことは、ツーレルの城さいの占領で、これでフランスの勝利が約束されたのでした。ロワール川の左岸には、その城さいがあった場所を示すために、簡単な十字架が立てられました。

 オルレアンの解放は、ほんの始まりにすぎませんでした。いぜんとして、何千というイギリス兵がフランスの町を占領して、フランスの村々を焼きはらい、いたるところで荒らしまわっていたのです。ジャンヌは、リームスでシャルルをたい冠させるという、声に命じられた使命を果す前に、これらのイギリス軍を打ち破らなければなりません。
以前はイギリス軍を恐れていたフランス軍も、今では敵を求めて戦おうとしていました。フランス軍は、ジャンヌが共にいて導いてくれれば、勝利は自分たちのものだという自信がついて、新たな勇気が出てきたのです。
ジャンヌに聞こえる声は、フランスを救うには1年間しかないと、彼女に告げていました。時間をむだにできません。ジャンヌは、イギリス軍が占領しているとわかっているオルレアン付近の小さな町々に向かって、オルレアンから進軍しました。
まず最初は、10マイル離れたジャルジョーから攻めました。イギリス守備隊は、イギリス貴族サホーク伯爵に指揮されていましたが、その守備隊はオルレアンの敗北からまだ立ち直ってはおりませんでした。白馬にまたがり、攻撃を指揮しているジャンヌを見ると、イギリス守備隊は恐しさのあまり力を失ってしまったのです。フランス軍は町に攻め入り、ジャンヌをともない、激戦となりました。町は占領され、サホーク伯爵を捕虜としてとらえました。

 ジャンヌは、兵士たちに休息を与えませんでした。おそらく、ジャンヌは、イギリス軍に立ち直る時間を与えずに攻めてしまうのが、一番よいと思ったのでしょう。すぐさま、25マイル離れたボーザンシーという小さな町を攻めて占領してしまいました、そのあと、ジャンヌのもっとも有名な勝利となった、20マイル北方のパターへとジャンヌは向かったのでした。
地図を見ればわかりますが、これらの町はオルレアンを中心に三角形を作っています。この三角形をこわすには、ジャンヌはこれらの町を占領しなければならなかったのです。
イギリス兵は、今では迷信を恐れて戦闘意欲を完全に失っていました。
ジャンヌと兵士たちが、突然6月の朝霧の中から現れたときには、戦いはもう半分は勝ったようなものでした。
14年前のアジンコートの戦いで、イギリス軍の弓を使う兵士たちは、前線に先をとがらせた棒でさくを作り、自分たちを防御しました。さくのうしろから、フランスの騎士たちに、命とりの矢を射かけたのでした。ジャンヌは、さくが作られる前に、パターを攻撃しました。その攻撃で、フランス軍は敵の3分の1以上を殺害しました。他のイギリス兵たちは、逃亡したり、降服してしまいました、そして、指揮官のタルボット卿は、多くのイギリスの騎士たちとともに捕虜となってしまったのです。

 リームスまでの行進は長い距離でしたが、イギリス軍は戦う意欲を失って、魔法を恐れるあまりパリに退却してしまい、行進をさえぎろうとはしませんでした。ジャンヌは、トロイを通って200マイル以上もの距離を、勝ちほったフランス兵たちともに行進していきました。
シャルルのたい冠式は、リームスの大寺院で豪華に行われました。式では、祭服を着た教会の高僧たちや華麗な服装の貴族たち、すばらしいドレスを着た貴婦人たちが、ステンドグラスの窓からさしこむ光の中で、絵のように輝いておりました。しかし、そのなかでも、もっとも注目されていたのは聖女ジャンヌ・ダルクでした。
ジャンヌは光り輝くよろいをつけ、フランスを勝利に導いた旗を手にして、厳粛にたい冠される国王のそばに立っておりました。これは、ドムレミから来た、たった17歳のいなか娘にとって、すばらしい瞬間でありました。
国王のたい冠式が無事に終り、ジャンヌは、神の声から命じられた仕事は終ったと思いました。ジャンヌは、ローレイヌの素朴生活にもどりたいと思いました。「神の意志はかないました。私は、また兄弟たちといっしょに羊を飼う仕事にもどりたいと思います」 と、ジャンヌは言いました。
しかし、その願いはかなえられませんでした。

 フランス軍の指揮官たちはジャンヌをねたんでいましたが、勝利をもたらしたのはジャンヌであることも承知していました。フランス兵は、他のどんな人が指揮しても、ジャンヌに率いられたときのように従順に従ったことはありませんでした。
ジャンヌが現れる前は、イギリス重騎兵はほんの数人で、数百人のフランス兵を戦場から退却させることができました。しかし、今ではその反対になってしまったのです。ジャンヌはとても勇敢な女性でした。ジャンヌは兵士たちをこれまでにない戦いぶりで戦わせました。ジャンヌの不思議な力の評判は、フランス兵をふるいたたせました、しかし、迷信深いイギリス兵はすっかりおびえてしまったのです。
ジャンヌは、リームスのサンドニ教会の聖母マリアに、自分のよろいと刀を奉納しました。ジャンヌの不思議な声はもう、勝利の話はしなくなっていました。ジャンヌは、2度も3度もドムレミに帰れるよう願い出ましたが、いつも拒まれてしまいました。
ジャンヌはとても不幸でした。ジャンヌはフランスの英雄であり、すべての国民に愛されていました。ジャンヌの行くところどこでも、人びとはひざまずいて祝福の言葉をかけ、荒々しい兵士たちは涙を流して歓迎したのでした。ジャンヌの助けで国王になったシャルル7世の宮殿にいる人だけが、ジャンヌを軽べつし、ねたんでいたのです。

 パリは、いぜんとしてイギリス軍に占領されていました。フランス軍の指揮官たちは、ジャンヌが兵士たちをふるいたたせて戦ってくれなければ、パリを奪いかえすのはむずかしいことを知っていました。指揮官たちは、ジャンヌの気持に逆らって、ふたたび戦場に出るように迫ったのです。
ジャンヌは、いやいやながら、よろいを着けました。ジャンヌは1年以内に使命を成しとげなければならないという神の声を思い出しました。今や、その1年はすでに過ぎ去っていたのです。
パリ攻撃は失敗に終ってしまいました。フランス軍の指揮官たちは、愛国心よりもジャンヌをねたむ気持の方が強かったのでした。フランス兵は勇敢に戦いましたが、人数は少なく、そのうえイギリス軍の方には援軍が補強されていたのです。
ジャンヌは、前の戦いと同じように、勇気をふるいおこして危険をかえりみず、兵士たちを率いて戦いました。いつものようにジャンヌは、もっとも戦いの激しいところで戦ったのです。サントノーレ門の攻撃で、フランス兵は後退しはじめてしまいました。ジャンヌはただ1人で前進し、兵士たちに続くように叫びました、兵士たちは続きましたが、ジャンヌはまた負傷してしまいました。戦いは激しくなり、ジャンヌは門が陥落するまではふみとどまるといって、掘割に横たわっていました。しかし、ジャンヌが倒れたのを見た兵士たちは勇気を失っていたのです。兵士たちは、敵に対抗できなくなり、ジャンヌを運んで退却しました。

 フランス軍の指揮者たちは、ジャンヌが撃退されたことをひそかに喜んでおりました、虚弱で臆病なシャルルは、ブールジュにこもってしまいました。
ジャンヌは、もう一度ドムレミにもどれるよう願い出ましたが、またも利己的な国王にことわられてしまいました。そのかわりに、ジャンヌは称号を与えられ、定収入を約束されましたが、その約束は一度も果されませんでした。そのうえに、ドムレミの村は納税を免除されたのでした。ジャンヌは、生れ故郷にとってためになることができたのをうれしく思いましたが、それよりも故郷に帰りたい気持の方が強かったのでした。
ブルゴーニュ公爵はイギリス側について戦っていました。公爵は休戦に同意しましたが、その休戦も翌年の1430年の春まででした。
ジャンヌがオルレアンを救ったのは1428年でした。神の声が約束した1年はすでに過ぎ去っていましたが、パリの南東2、3マイルのところにあるマルンでの戦いで成功をおさめたとき、声はふたたびジャンヌに語りかけました。ジャンヌはこう言っています。「マルンの城壁に立ったとき、聖カトリーヌと聖マーガレットが、私に警告してくれました、6月24日のパプテスマの祭日の前に私が捕虜になるというのです。私はつかまるなら長くとらわれの身で苦しむより、すぐその場で死ねますようにと祈りました」

 1430年の5月、不思議なジャンヌ・ダルクへの声の警告は事実となりました。
コンピエーニュの町は、ブルゴーニュ公爵の軍隊に包囲されてしまいました。シャルルはいぜんとしてブールジュにこもっていましたが、ジャンヌはフランス軍の分けん隊とともにコンピエーニュの救援に向かいました。
彼女はいつもの勇敢さで攻撃を先導し、敵を切り開いて町の中に入っていきました。そのようすは、オルレアンの解放がコンピエーニュでもくり返されるかと思われました。
オルレアンでは、ジャンヌは次々と出撃して、町のまわりの要塞を占領したのでした。オルレアンでの攻撃が成功したので、ジャンヌはコンピエーニュでも同じ攻撃方法をとりました。数回の出撃で、ブルゴーニュ軍は退却しはじめていたのですが、ブルゴーニュ軍は突然反撃に移りました。
フランス軍が退却するとき、ジャンヌは危険の多いしんがりにいたのです。フランス軍兵士たちは助かろうとして、最後の望みをもって町へ引き返し、とり残されたも同然のジャンヌは、敵にとり囲まれ、馬から引き下ろされてしまいました。
ジャンヌは、ついにブルゴーニュ公爵の囚人となってしまいました。公爵はそんなことをすれば、ジャンヌはまちがいなく殺されてしまうということをわかっていながら、この卑劣なフランス貴族はジャンヌを1万リラでイギリス軍に売ってしまったのでした。

  まったく恥知らずにも、臆病なフランス国王は、フランスを救い、国王の地位をもたらしてくれたいなか娘に、何の救いの手もさしのべようとはしませんでした。イギリス軍のただ1つの望みは、ジャンヌからもたらされた屈辱に復しゅうすることでした。ですから、ブルゴーニュ軍からジャンヌを買いとるためなら喜んで、ずるいペテンのホーべの司教と共謀したのです。
ジャンヌは、イギリス軍にとらわれれば、自分の運命がどうなるかわかっていました。それから逃れようと、ジャンヌは地上60フィートの窓から飛びおりて、大けがをしてしまいました。それは、むだな努力でした。ジャンヌはうらみ重なる敵にわたされてしまい、くさりにつながれて、じめじめした暗い牢獄に何週間も入れられてしまったのです。
裁判はあまりにも不公平で、長々と続きました、しかも、わいろをもらって、ジャンヌをイギリス側に売り渡した卑劣漢の司教が裁判を取りしきっているのです、ジャンヌは、魔女の判決を受け、ルーアンの広場で火あぶりの刑にされたのでした。1430年にジャンヌを殉死させた教会は、1919年にジャンヌを聖人として迎え入れました。
次ページの絵は、エマニエル・フラミエの彫った有名な像ですが、よろいをつけたジャンヌが戦いの前に神の導きを求めて祈っているところです。


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