レディバードブックス100点セット
 

 

王と女王1

〈王と女王以前〉

 人びとはつねに指導者を有し、指導者はついには、つねに称号を獲得するのです。やがて、これらの指導者の多くの親族が統治親族、すなわち王室となりました。事実 「王」 という称号の起原は、親族とか家族などの意味をもつアングロ・サクソン語の cyning に由来しています。
ブリテンの最初の王は、王というよりは種族を統率する族長のようなものであって、国土の大部分をおおっていた大森林の中の開拓地に住んでいました。ローマ人の侵入(紀元43年) までには、たいへん大きい種族もいくつか存在していました、歴史家は彼らの首領を、トリノヴァンツ(現在のコルチェスター市) の王クノベリンとか、アイセニ(東アングリア)の女王ボウディセア(ボウディッカ) と記述しています。
しかし、イングランド全体の王が出てくるまでには、さらに何世紀かが経過しました、彼らは紀元3世紀、ローマ人の支配下にあったブリテンの沿岸に最初に侵入した、活発で戦争好きな侵入者のなかから出てきたのです。彼らはアングロ・サクソン人、すなわち、北ドイツ及びデンマークから渡ってきたアングル人、ジュート人、サクソン人でした。紀元426年にローマ人がブリテンを放棄した後、アングロ・サクソン人はますます数を増して侵入してきました。彼らは、先住民を西方ウェールズに追放し、彼ら自身の王国を建設しました、そのなかにはノーサンブリア、マーシア、ウェセックスと東アングリアなどがあります。
8世紀になると、歴史はくりかえしはじめました。今度はアングロ・サクソン人がどう猛な外国の侵入者、スカンジナビアからのヴァイキングに立ち向かう番となったのです。1世紀以内に、ヴァイキングはイングランドの広大な地域を占領し、ウェセックスのアングロ・サクソン人の王だけが残って、彼に挑戦したのでした。その挑戦が成功し、ここからイングランドの王と女王の物語が始まるのです。

〈サクソン人の王〉

アルフレッド大王 871-899

 ウェセックスの王室は戦士の一族でした、そして、アルフレッドは4人兄弟の末弟でしたが、9世紀に王国を統治し、即位した871年に9回もデーン人のヴァイキングと戦いました。その当時、デーン人がイングランドの半分を領有し、残りの半分、すなわちウェセックスの領地を虎視たんたんとねらっていました。彼らの侵入を止めるためにアルフレッドはとりでを築き、新しい海軍を組織し、陸軍の半数に王国を警固させ、残りの半数には国土を耕作させました。
それにもかかわらず、877年にはデーン人の軍隊は侵入に成功し、チッペンハムにあるアルフレッドの宮殿を攻撃しました。アルフレッドはアセルニーの沼地(現在のサマセット) へと逃げました。

 他のアングロ・サクソン人の王たちは、同じような境遇の中にあり、絶望しあきらめて国を投げだしてしまうか、あるいはデーン人に賄賂を送って立ち去るように頼もうとしました、しかし、アルフレッドはそのようなことはしませんでした。878年に、彼はかくれていた場所から脱出してデーン人をさんざんに打ちやぶりましたので、彼らの指導者グットルムは二度とウェセックスには侵入しないと約束しました。
アルフレッドは自分のかちとった平和を利用して、教育を改善するための学校の設立とか、宗教生活を活性化するための修道院の復興とかに力を注ぎました。彼がラテン語を翻訳して英語で書かれた最初の本をつくるのを援助しようと、有名な学者たちがウィンチェスターにあるアルフレッドの宮廷にやってきました。アルフレッドはまた法律の大綱をつくり、臣民を教化する機会をもちました。もっとも重要な法律は 「自分がされたくないことを他人にしてはならない」 ということでした。アルフレッドは戦士と学者とを兼ねそなえた、たぐいまれな人物で 「大王」 という称号を受けました、これはイングランドの他のどの王にも与えられない称号です。

アルフレッド大王の王朝 899‐1017

エドワード長兄王 899‐924
アセルスタン 924‐939
エドマンド長兄王 939‐946
エドレッド 946‐959
エドウィ 955‐959

 アルフレッドのあとを継いだ最初の王たちが、彼のように立派な才能と活気をもっていたことはイングランドにとって非常に幸運なことでした。アルフレッドの後継者である彼の息子のエドワード長兄王(899‐924) は彼の治世の大部分を、デーン法地域(イングランドのデーン人占領地域はこう呼ばれていました) から外国人たちを追いはらう戦いに費やしました。
エドワードは917年から918年に至る期間、マーシャ(英国中部を占めたアングロ・サクソン族の古代国家) 国王の夫人である姉のエセルフレダの援助を受けました。エセルフレダはてごわい戦士でした。彼女が甲冑に身を固め、剣を手にして軍隊を率いて戦場に現れると、デーン人たちさえもおびえたほどでした。918年まで、エセルフレダとエドワードは、マーシー川とハンバー川の南のイングランドを制圧しました、そしてデーン法地域の大部分は消滅しました。
918年にエセルフレダは没し、続いて924年にエドワードも没しました、その後は、エドワードの3人の息子が、エセルフレダと彼らの父がやり残した場所でその仕事を受け継いだのです。

 長兄のハンサムで印象的なアセルスタン王(924‐939) はデーン人を北方遠くまで追いやり、デーン人の新王国ヨークを滅ぼし、イングランドの領地をほぼ今日占めている地域にまで広げました。アセルスタンの弟たち、エドマンド(939‐946) とエドレッド(946‐955)は、王としての年月をアセルスタンが得た利益を強化することに費やしました。955年にほぼ15歳で王位につき、その4年後に没した彼らの甥のエドウィは、イングランドの歴史にその足跡を残す機会にほとんどめぐまれませんでした。しかし、エドウィは彼の未来の花嫁とその母親を訪問するために戴冠式に欠席し、ロンドン司教ダンスタンといさかいを起しました。ダンスタンは、この十代の王を追いかけ、戴冠式の祝宴に引っぱっていったようです。ダンスタンは後にイングランドから追放されましたが、イングランドの貴族たちがこのむこうみずなエドウィがいやになってしまったので、やがてもどってきました。彼らはかわりに、彼の弟エドガーを959年に王に選びました。

エドガー 959‐975

 それはすぐれた選択でした、エドガー王は真にアルフレッド大王の後継者にふさわしい王だったのです。彼はアルフレッド大王以後の王のなかで、戦いに時間と労力を費やす必要のない最初の王でありました。叔父にあたるアセルスタン、エドマンドとエドレッドが、すでに戦いをやりとげてくれたのでした。
即位したときはわずか13歳だった若いエドガー王は、ダンスタンとともに、アルフレッド大王がはじめた教育の普及と宗教生活の復興に注意を向けました。彼らの仕事はたいへん実り多いものでした。イングランドにおいて生みだされたもっとも美しい彩色された絵入りの写本は、エドガーの時代にできあがったものですし、ステンドグラスをふんだんに使った美しい寺院の建物もそうでした。この時代は、学問と宗教の厳格な遵守に関しては 「黄金時代」 でした、そして、さらに多くの学問的な書物が英語に翻訳され、修道士たちはより価値あり、より敬虔な生活を送りはじめたのです。
973年までに、エドガーの威光はすばらしいものとなり、伝説のいうところによれば、6人の王がディー川でエドガー王をのせたボートをこいだということです。彼らの側のこの卑下した行為は、彼らが心からエドガーを王のなかの王として認めたことを示すものです。

 その年に、エドガーはバース寺院における戴冠式において王位につきました、その戴冠式の本質的要素は現在でもそのままです。戴冠式のもっとも重要な部分、すなわち、君主の頭に聖油を注ぐことは、王や女王を普通の人とは離れたところに置く儀式とみられるようになりました。それは、王権には特別な魔力、神から直接与えられた魔力があるのだという考えを確立したのです。

エドワード殉教王 975‐978
エセルレッド無思慮王 978‐1016
エドマンド勇猛王 1016

 悲劇的なことに、この 「黄金時代」 は、2年後975年のエドガーの死とともに突然終ったのです。それ以後、アングロ・サクソンの君主政体に影がさし、時とともにその影は濃くなったのでした。エドガーの息子で後継者のエドワードは978年、16歳のときに殺されました。殺したのは、明らかに彼の義母で、彼女は10歳になる自分の息子のエセルレッドを王位につかせたかったのでした。彼女はその望みを果し、イングランドに災害をもたらしました。
エセルレッドは、まさにその綽名無分別を意味する“無思慮” どおりの王でした。彼の弱体支配のため、イングランドは年々、新しいデーン人の侵入者に圧倒されました、侵入者たちは殺りくの跡と、破壊と、悲しみと恐怖を残していったのです。1003年に、デンマークのスウェイン王は、エセルレッドをノルマンディに追放し、イングランドの王を宣言しました。
1014年にスウェイン王が没すると、イングランドの貴族たちは、もっと有能に統治するならという条件で、エセルレッドを呼びもどしました。しかしスウェインにはカヌートという息子がいて、彼はイングランドをそんなにたやすく手放しはしませんでした。1015年、カヌートはケント地方に大艦隊で侵入し、荒廃をもたらす戦争がふたたび始まりました。1016年4月にエセルレッドが没すると、彼の息子である後継者、エドマンド勇猛王はデーン人に対する戦いを遂行しました。エドマンドはたいへん力強い戦士だったので、カヌートはイングランドを彼と共有することに同意しました。
しかし、そうはならなかったのです。エドマンドが1016年の11月に突然死んだので(彼は殺されたのかもしれません) カヌートはイングランド全土を領有するようになりました。

カヌート王 1016‐1035  と彼の息子たち

 カヌートは広範な力をもった王でした。彼は3つもの王国を自分の国としました。イングランド(1017)、デンマーク(1019)、ノルウェー(1019)の3国です。カヌートがノルウェーを手に入れるためには、陰謀と暴力を必要としました、しかし、それだけの価値はじゅうぶんにありました。ノルウェーは、マン島からグリーンランドに至る広大な領土をカヌートの支配下にもたらしました。それは帝国でした、そしてカヌートは、すべての敵から冷酷にその帝国を守ったのです。たとえば、彼はエドマンド勇猛王の2人の息子を遠いハンガリーに送りました、彼らが二度ともどらないことを願いながら。
しかし、カヌートは決して自分の権力を過信する思いあがった野蛮人ではありませんでした。彼は1人の人間のできることには限界があることを知っていました。彼はイングランドを秩序よく治め、熱心で誠実なクリスチャンでしたが、自分の没後は、紛争状態にある親族や貴族が3つの王国をいっしょにしておくことはできないし、それらを上手に統治することもできないだろうとわかっていたのです。

ハロルド一世兎足王 1035‐1040
ハーデカヌート 1040‐1042

 カヌートの思ったとおりでした。1035年に彼が没すると、社会不安と危機が起りました。イングランドにおいて彼の後を継いだのが、無能な息子たち、ハロルド兎足王(1035‐1040) とハーデカヌート(1040‐1042) だったからです。2人とも有能な王ではなく、ハーデカヌートはまったくのごろつきでした。彼のおそるべき行為のなかには、彼の兄の死体を掘りだしてそれを沼地に投げすてたことや、貴族の1人の殺害にたぶん加わったことなどがあります。明らかに過度の飲酒のせいで、ハーデカヌートが没すると、イングランド人は喜んで彼の後継者を歓迎しました、とくにその後継者がウェセックスの彼ら自身の王室の人だったからです。彼はエセルレッド無思慮王のもう1人の息子エドワードで、以後エドワード懺悔王として歴史に知られてます。

エドワード懺悔王 1042‐1066

 エドワード懺悔王は、国を治めるよりは宗教に関心があった、弱い世俗離れした王として、たいてい描かれています。修道士たちは 「この世の汚濁のなかで天使のように」 生きたと、彼のことを書いています。エドワードは真に宗教的で平和を愛しましたが、天使ではありませんでした。1042年、25年間のノルマンディでの亡命生活のあと、彼が王になったときに、彼は自らの権力を維持しようと決意しました。たとえば、1051年にウェセックスのゴドウィン伯爵がエドワードを脅かそうと兵を集めました。エドワードは伯爵の要求に屈伏することを拒絶し、やがてゴドウィン一族を追放しました。
1052年、エドワードはウェールズ人がイングランドに急襲してきた罰として、ウェールズの王子ライスの殺害を命じました。後にライスの首が彼のところへもってこられたとき、エドワードはそのぞっとするような光景にもちぢみあがることはありませんでした。これらは弱い王の行為ではありません。
さらにエドワードの治世中、イングランドは比較的平穏でした。これも弱い支配者が容易に成し得ることではありません。その証拠として、不安定な時代を確かに示すものとしての金銭の秘匿が、彼の在位中に劇的に減少したという事実があります。
もちろんエドワードも誤りをおかしましたし、彼は重要な地位をノルマン人の友人に与えて、イングランド人の臣下を立腹させました。しかし、エドワードのもっとも大きな誤りは、王冠を最初は1052年にいとこのノルマンディのウィリアム公爵に、ついでゴドウィンとのあらそいが修復されたあとには、ゴドウィン伯爵の息子のハロルドに与えようとしたことでした。
その結果は破局的なもので──アングロ・サクソン人の統治するイングランドの終りにほかならなかったのです。

ハロルド二世(ゴドウィンソン) 1066

 エドワード懺悔王の没後(1066年1月)、ウィタン(王室会議) によって選ばれたハロルド・ゴドウィンソンは、統治者として立つ機会をもちませんでした。彼は立派な軍人でしたが、その彼の軍事的技量をもってしても、その秋、強力な大軍を従えた2方の敵がイングランドに侵入してきたとき、その事態を処理することができませんでした。
その強力な大軍の1つは、ノルウェー王ハードラダ(烈しい支配者) の軍隊で、一時はカヌートのものであった王位の返還を要求しようとしました。ハロルド・ゴドウィンソンはスタンフォード橋においてハードラダを打ち破って殺しました(9月)、しかし、ハロルドはその後、ノルマンディのウィリアムの侵入軍を迎え撃つために、南へ402キロ行軍しなければなりませんでした。ウィリアムは、エドワード懺悔王が譲ると彼に約束していた王位のことはだまされていたとわかり、激怒して、疲れはてたハロルドとへイスティングにおいて戦って、これを殺したのです(10月)、ここにおいて、イングランドにおけるアングロ・サクソン人の統治は終りました。

〈ノルマン王朝〉

ウィリアム征服王 1066‐1087

 ウィリアム一世 「征服王」 として、彼はノルマンディを治めたように、イングランドをも統治しました、そのおきてはごく単純でした。ウィリアムは服従する者には寛大でしたが、そうでない者には無慈悲でした。彼はまず、征服したイングランド人の協力を得ようとしました。これが失敗に終ると、イングランド人の反乱は残酷に罰せられました。北部の蜂起はその土地の荒廃をもたらしました。作物や村は焼かれ、人も家畜も虐殺されました。やがてノルマン人の貴族がサクソン人の貴族にとって代りました。
人びとは封建制度の下で農奴となりました、その結果、彼らはノルマン人の領主に、ほとんど奴隷のように束縛されることになったのです。今や大部分が王領となった森では、イングランド人はそれまで食料としてきた狩猟鳥をとることを禁じられました。
ウィリアムの征服がイングランド人にとって、苦痛と屈辱に満ちた経験であったのは当然でした。

ウィリアム征服王の息子たち

ウィリアム二世(赫顔王)  1087‐1100
ロバート

 ウィリアム征服王の息子たちは、父王の没(1087年) 後まもなく、やっかいな怒りっぽい人物であることがわかりました。足が短いため短足と呼ばれていた、のんきで怠惰なロバートはノルマンディ公になりました。イングランドの王には2番目の息子が即位しました、それがウィリアム二世です。彼は赤ら顔で怒りっぽかったので、赫顔玉と呼ばれました。5000ポンドを銀貨で送られた末の息子のへンリーはずる賢く、貧欲で、不誠実な男でした。ロバートとウィリアムが争ったとき、ヘンリーはかわるがわるどちらの側にも味方しました。ウィリアム赫顔王はロバートからノルマンディを奪おうともくろみました。1096年までに、賄賂と暴力を使って彼はそれに成功しました。

 ウィリアムはロバートの貴族たちにお金を支払って彼を裏切らせてから、ノルマンディに侵入しました、ついにロバートはひたすら喜んで彼から逃げ去りました。ロバートはノルマンディを担保として1万マルクをウィリアムから用立ててもらい、聖地への十字軍に参加したのです。このときまでにイングランド人たちは、ウィリアム赫顔王が、ときには慈悲深かった父王とは似ずに、終始残酷な支配者であることがわかっていました。

 1095年以後、ノーサンバーランド、ウェールズ、及びスコットランドにおける反乱は、残忍な方法と大量虐殺で鎮圧されました。敬虔なキリスト教徒であったウィリアム征服王とは異なり、赫顔王は教会も神も何とも思いませんでした。彼が示した神への不慮は修道士たちがショックで気を失うほどでした、彼らの年代記には、神を恐れぬ王のことが恐怖をもって書かれています。しかしながらウィリアムは、臣下に課した重税に加えて、教会を有用な収入源と考えていました。彼は教会の司教を長期にわたって空席にして、その収入を着服したのです。赫顔王が恐れおののいて宗教に目をむけたことが一度だけありました。それは1093年、彼が病気にかかり死にそうになったときのことです。自分の命を救うために、というのが理由のようですが、赫顔王は高徳なアンセルムをカンタナベリー寺院の大司教に任命しました。王と大司教はすぐに仲たがいをしました。アンセルムは、イングランドおける法王の権力が王の権力にまさるべきだと信じていました。ウィリアムは反対の意見でした。いずれも屈服しようとはしませんでした、ついにアンセルムは失意のうちにイングランドを去ったのです(1097年)。すると突然、修道士たちは当然の報いだと思いましたが、ウィリアムは不幸にみまわれるのです。1100年8月2日に、彼は森で狩をしている最中、矢にあたって不可解な死を遂げました。それは事故だったのでしょうか、それとも殺人だったのでしょうか。もし殺人だったとしたら、へンリーが犯人だったのでしょうか。ウィリアムが殺されたとき、ヘンリーもたまたま同じ森で狩をしていたのです、そしてその後、そんな事件が起るのを予測していたかのような行動を彼はとったのでした。彼は兄が死んだと聞くとすぐに、ウィンチェスターにある王家の財宝を手に入れようと全速力で馬を走らせました。1100年8月5日に彼はウェストミンスター寺院において即位し、ヘンリー一世となりました。そのすぐ後にロバートが十字軍から帰国しましたが、ヘンリーは彼にノルマンディを要求しようと軍隊を従えて待ちかまえていました。何年か戦争と陰謀がくり返されましたが、ヘンリーは1106年にタンシュブレーの戦いでロバートの軍隊をうちやぶりました。ロバートは死ぬまでの28年間を牢で送ることになりました。

ヘンリー一世 1100‐1135

 へンリー一世は兄弟に対して意地悪く、貪欲、残酷で裏切りを何とも思いませんでした。しかし、このような人間は激動の中世にあってはよく王にふさわしい王、臣下に権威を鋭敏に感じさせることのできる王になることがありました。
これはヘンリーがたしかに成しとげたことでした。彼は税制をくわしく調査しました、その結果、州長官やその他の徴税役人はごまかしがきかなくなりました。税は今やチェッカー盤の上で数えられ、ヘンリー王自らが、すべてのお金がそこにあるかどうか確かめるために、自ら監視することもときにはありました。へンリーは訴訟を裁くためにクリア・レジス(王の法廷) を創立しました、それで、罪人が支払った罰金は彼の宝庫に治まることになりました。それ以前には、地方の裁判官が罰金を着服していたのです。彼がなしたこのすべてのことは、人民に王が親しく正義が行われることに関心を持っていると信じさせることになりました、そして、王の平和は保たれたのでした。その結果できあがった秩序正しい王国は、ヘンリーにとって重要でした、なぜなら、彼は治世の半分はイングランドを留守にし、ノルマンディを攻撃から守ることに成功したからでした。やがて、1120年になると、ある悲劇が起って、ヘンリーの秩序よく保たれた王国を危険におとし入れることになるのです。彼の息子のウィリアムが、船の難破で溺死したのです、そしてヘンリーは娘マティルダと残されました。王がしばしは戦いに出なければならなかった当時としては、女性は統治者として不適格だと考えられていました。そこで、マティルダを自分の後継ぎにすることについて、ヘンリーは二度も貴族たちに忠誠を誓わせていたにもかかわらず、彼らが約束を守るだろうとはへンリーもほとんど思いませんでした、また、貴族たちはマティルダの夫、アンジュー伯ジェフリーを忌み嫌っていたので、なおさらそう思えなかったのです。紛争が起りそうでした、事実、1135年にへンリーが没すると、紛争が起りました。

スティーヴン王 1135-1154 と女帝マティルダ

 へンリー一世の没後3週間たつと、イングランドは新しい君主を持ちました。それは後継ぎのマティルダではなく、ヘンリーお気に入りの甥、ブロワ(フランス領) のスティーヴンでした。スティーヴンは、ヘンリーが死んだと聞くとすぐにイングランドに到着し、すぐにウェストミンスター寺院において即位したのです(1135年12月22日)、誇り高くわがままなマティルダは、相続権をだまし取られたのにたえられませんでした、そこで彼女は、スティーヴン及び彼を支持する貴族たちに戦いを挑んだのです。
マティルダの叔父にあたるスコットランド王ディヴィッドは、北イングランドに侵攻しました。彼女の腹ちがいの弟ロバートは西方に侵攻しました。彼女の夫ジェフリーはノルマンディで戦いました。貴族たちはヘンリーの鉄の支配から解放されて、各自の地方における戦を勇んで始めました。
それでもマティルダはスティーヴンをうちまかすほど強くはなく、また、スティーヴンものんきすぎて、彼女を敗北させることができませんでした。
1139年にスティーヴンの軍隊はマティルダを捕虜としました、しかし、彼はあまりにも騎士的で彼女を投獄することができず、釈放したのでした。1141年には、マティルダがスティーヴンを捕えて投獄し、戴冠式を行うためにロンドンへ出かけました。しかし彼女はあまりに高圧的だったので、ロンドン市民は腹を立て、彼女を追いだしてしまいました。
マティルダは1148年に降伏し、彼女の息子へンリー・プランタジネットが戦いを続けました。ノルマンディの貴族たちは、ヘンリーにスティーヴンの後を継いでもらいたいと思いました、彼らはスティーヴンがノルマンディに関心がないと感じていたからで、事実そうだったのです。スティーヴンは、息子のユースティスを自分の後継者として王位につかせたいと思っていました、しかし、その問題はユースティスが突然死んだ(1153年) ので、悲劇的に解決されることとなりました。スティーヴンは悲嘆にくれ、へンリー・プランタジネットが彼の後を継ぐことに同意しました。へンリーはそう長く待つ必要はありませんでした。スティーヴンはユースティスの死から立ち直れず、1154年10月、彼の死後14か月で没したのです。

〈プランタジネット王朝〉

へンリー二世 1154‐1189

 ノルマンディ公であり、アンジュー伯であり、アキテーヌ領主でもあったへンリー・プランタジネットが、ヘンリー二世として王位についたとき(1154年12月19日)、イングランドは広大な彼の帝国の一部となりました。イングランド人はまさに彼らが必要としていた王、すなわち長年にわたる無政府状態をぬけて、法と秩序を回復することのできる王をおくことになったのです。激しい性質の持主で、休むことを知らず、精力的なへンリー二世は、よく組織された政府と有能な法廷を価値あるものと固く信じていました。法廷において、ヘンリーは 「試練法による裁判」 すなわち、人びとが無罪を証明するために、沸騰している湯に手を入れたり、灼熱の鉄を握ったりした野蛮な裁判を禁止しました。へンリーの法廷では、12人の陪審員からの証言を聞いた裁判官によって判決が下されました。
しかし、ヘンリーが激怒したことには、教会は聖職者が彼の法廷で裁かれるのを拒絶したのでした。この問題を解決するために、ヘンリーは1162年、彼のもっとも親しい友人トーマス・ベケットをカンタベリー大司教に任命しました。期待に反して、ベケットは教会の法廷で聖職者を裁くという教会の権利を強く擁護したのです。1170年に、怒り狂ったヘンリーの4人の騎士たちがベケットをカンタベリー寺院で殺害するという悲劇が起りました。へンリーはまた、息子たちにも悩まされました。へンリーは彼の権力を息子たちに分けあたえようとしなかったので、息子たちのなかの2人──リチャードとジョンは、父の大敵であるフランスのフィリップ王に加担したのです。
1189年にリチャード、ジョン、フィリップは、当時重病にかかっていたヘンリー王に戦いを挑みました。へンリーは、もっとも愛していた息子ジョンの裏切りを聞くと、がっかりして敗北を認めました。その2日後に、不幸を嘆き悲しみながらヘンリー二世は自分の城、シノン城(フランス) で没しました。

リチャード一世 獅子王 1189‐1199

 あのように残酷に裏切った父王の後を1189年に継いだリチャードー世は、イングランド歴代の王のなかで、もっともロマンチックな王でした。彼は偉大な十字軍戦士であり、騎士道精神にとんだ騎士であり、力強い戦士 「獅子王」 でした。
しかし、イングランドはこの英雄王のために、高いつけを払わなければなりませんでした、リチャードは、彼の王国を第3次十字軍(1189‐1192) の資金調達のための宝庫とみなしていたからです。この目的のために、リチャードは事実上イングランドを売りに出したのでした。彼は、土地、貴族の領地、州長官の職、伯爵位、教会、政府内の地位などを現金で売りに出しました。リチャードはロンドン市までも喜んで売りたかったようでした。「ロンドンを費えるほどの金持がいればいいんだが」 と、彼ははっきりと宣言していました。
その結果リチャードは、イングランドを未経験で貪欲な人びとの手にゆだねて、十字軍に出征することになりましたが、ゆだねられた人びとは争いにあけくれるようになりました。やがて、リチャードの弟ジョンが兄の権力をひそかに手に入れようと企てました。

 「貴族たちは騒ぎ、城は強化され、町はとりでと化し、堀が掘られた……」 と、年代記作家は書いています。換言すれば、人びとは神経をとがらせ、おびえていました、ただ、リチャードの母エレアノと、リンカーンの大司教ウォルターがいたために、法と秩序の大規模な崩壊をまぬがれえたのでした。1194年、リチャードはイングランドにさらに多額の金を支払わせました。彼は十字軍から帰国の途中、オーストリアのレオポルド公に捕えられ、その後、身のしろ金を要求されたのです。リチャードは帰国し、今度はフランス内の自分の領土を守る戦いをするためにさらに多くの資金を集めました。それから2か月後に(1194年5月) 国を離れ、二度とイングランドに姿を見せることはありませんでした。リチャードは1199年、毒を塗った剣で受けた戦場での傷がもとで没しました。

ジョン王 1199‐1216

 へンリーニ世の末の息子、ジョン王は裏切り者で、残酷で、貪欲で、自分の敵である囚人を拷問にかけたり、飢え死にさせるのを好んだ邪悪な怪物と、いつの世にも思われてきました。
ジョンはたしかに、おおかたはそのような恐るべき評判どおりの人間でした、しかし、当時の修道士の歴史家によって、おそらく実際よりも悪く描かれたと思われます。彼らにとって、ジョンは考えうる最悪の罪を犯したからです。彼は法王と争い(1205年)、イングランドに法王の禁止命令(1208‐1214) という恐ろしい罰をもたらしたのです。その禁止命令とは、イングランド人は教会から追放されるということでした。さらに悪いことには、その禁止命令の期間中、ジョンは教会から10万ポンド奪いました。それだけでは十分ではないかのように、ジョンは彼の甥アーサー王子殺害の疑いをかけられました。アーサーはジョンの兄ジェフリーの息子で、1186年に没しましたが、多くの人びとは彼をイングランドの王たるべき人とみなしていたのです。さらにジョンは独裁者のような統治を行って、貴族たちを怒らせました。すなわち、重税を課したり、法廷において一個人として、封建領主に対してよりも、彼らに不平を持つ農奴に有利な判決を出したりしたのです。

 たとえそんなことがあっても、ジョンは戦いで勝利をおさめてさえいれば、許されたことでしょう。しかし、彼はフランスにおける戦いに負けて、へンリー二世がつくった大帝国をイングランドは失うことになったのです。
貴族たちの忍耐も限度を越え、ジョンにマグナ・カルタ(大憲章)、すなわち彼らの権利、特典、土地領有権のリストに署名するよう強制しました(1215年)。それでもなお、彼らはジョンを信用せず、フランス王子ルイを招き、ジョンを退位させようとしました。ジョンはふたたび戦いを開始しましたが、災害が彼の軍隊をおそい、ウォッシュでその準備がすべて消失してしまったすぐ後に死にました(1216年)。

ヘンリー三世 1216‐1272

 1216年に、9歳のへンリー三世が父王の後を継いでから、最初のうちは万事好調でした。貴族や聖職者が摂政を立てて、幼王に代って、マグナ・カルタの規定に従って統治しました。やがてヘンリーが政府を引き継ぎ(1227年)、また騒動が起りました。へンリーが彼自身の顧問を、それも貴族のなかからは選ばないと強硬に主張したからです。彼は、彼のフランス人の妻エレノアとともに宮廷に集まってきた外国人を好みました。へンリーが、フランス国内の失地を取りもどそうと、実りのない戦争に金をつぎこんだり、自分自身や自分の宮廷のための立派な衣服や、宝石や、豪華な服飾品に多額の金をつかったりしたので、貴族たちの怒りは増大しました。
当然起るべき爆発が1258年に起りました、貴族たちが、レスター伯であり、ヘンリーの義弟であるサイモン・ド・モンフォールに率いられて、ヘンリーにオックスフォード条令に同意するように迫ったのです。この条令のなかには、王に助言する貴族会議の設立が盛りこまれていました。へンリーはたいへん恐れましたが、やがて法王に放免してくれるよう頼んで、その約束を放棄しました。貴族たちは今度は軍隊にたよることにしました。
彼らはヘンリーの軍隊をルーウィスにおいてうちやぶり(1264年)、王を捕虜としました。今や、ヘンリーはサイモンに命じられるままに文書に署名し、法令を発布する繰り人形となりました。
次第に、他の貴族たちはサイモンの増大する権力をねたむようになりました。へンリーの息子エドワードに率いられて、彼らはサイモンに反旗をひるがえし、イーヴシャムの戦い(1265年)で彼をうちまかして殺しました。へンリーはまた自由の身になりましたが、以後、政治に関与することはありませんでした。彼は晩年をもっとも気に入りの事業──ウエストミンスター寺院の再建に費やしました。

エドワード一世 1272‐1307

 背が高く、端麗な、すばらしい戦士であり、賢明な統治者であったエドワード一世は、ジョンおよびへンリー三世の陰うつな治世の後の、活気のある新鮮な一陣の風のようでした。王室の権威を回復し、徴税吏の腐敗やその他の政治上の問題を撲滅するために、エドワードは大会議(国会) とともに治めるように注意をはらいました。1295年、彼ははじめて教会、貴族、平民の代表を模範国会に召集しました。その後、エドワードは国会の承認なしに税を上げることはないということに同意しました。
エドワードは全ブリテンの統治を欲し、それでウェールズ人との戦い (1277‐1282)、スコットランド人との戦い(1296‐1307) となりました。エドワードはウェールズでは残酷な征服者でした、彼はその後、大きな城を輪状に方々につくって、それを守りました。

 ウェールズ人は、彼らの国の最後の王子を失いました、そこでエドワードは 「英語を話さない」 王子を彼らに送りました。彼の息子、すなわち、未来のエドワード二世が、カルナボン城で生れると(1282年)、王は彼をウェールズ人に与えました。もちろん赤ん坊は、英語はおろか他の国語もしゃべれませんでした。イングランド王の皇太子は以後、プリンス・オヴ・ウェールズと呼ばれることになりました。
スコットランド人は征服されないままでした、エドワードの軍事力を考えれば、それは決して小さな仕事ではなかったのです。彼の軍隊の規模は2万人もの射手がいて、当時までの最大のものでした。スコットランドを征服できなかったにもかかわらず、エドワードは「スコットランドの鉄槌王」として呼ばれるようになりました。彼は1307年、なおも彼らを打ちまかそうと戦いにいく途中に没しました。

エドワード二世 1307‐1327

 1327年の9月のある恐ろしい夜、パークレイ城のあたりでものすごい悲鳴が聞えました。その悲鳴が消えたとき、退位したイングランド王エドワード二世は死んでいたのです──赤熱した鉄でむごたらしく殺されて。いかにして名君エドワード一世の息子がそんな不名誉な死に方をするに至ったのでしょうか。それは自業自得でした。
エドワード二世にとって王であることは、とりもなおさず好き勝手にふるまって楽しく過すことでした。エドワードは政治とか、男らしい戦争には関心がありませんでした。彼は端麗で尊大な寵臣、ガスコンの騎士、ピエール・ガヴェストンといっしょに過すことをむしろ好みました。エドワードはガヴェストンに多くの贈物を与え、彼の妃であるフランスのイザベラをないがしろにしました。貴族たちは激怒し、ガヴェストンを追放して正当な政府にもどさなければ、反乱を起すとエドワードを脅迫しました。
エドワードは屈伏しましたが、ガヴェストンはすぐにもどってきました、このときには、貴族たちは彼を除いてしまいました、すなわち彼を殺害したのです(1312年)。
心乱れたエドワードは、1321年、彼の新しい寵臣マーチャーの領主デスペンサーとその息子が貴族たちの支配を打破するのを助けてくれるまで、復讐を待たなければならなりませんでした。
しかしイザベラ妃は、デスペンサー一族には、ガヴェストンのときのように面目を傷つけられてはならないと決意していました。1325年にイザベラはフランスに渡り、その地のデスペンサー一族と敵対する軍と合流しました。そのうちの1人がロジャー・モーティマーであり、彼はイザベラの愛人となりました。イザベラとモーティマーは軍隊を率いてイングランドにもどり、デスペンサー一族および王の支持者たちを狩り出し、殺害しました。エドワード王は投獄されて退位を強制され、後にパークレイ城において悲惨な最期を遂げたのです。

エドワード三世 1327-1377

 1330年にイングランド人はふたたび誇るに足る王にめぐまれました、その年に18歳のエドワード三世が、母のイザベラ女王と彼女の愛人である貪欲な野心家のロジャー・モーティマーから権力を奪ったのでした。エドワード三世は、騎士道と友情という理想のもとに統治される立派な宮廷をつくることにとりかかりました。事実、エドワードは、アーサー王のカメロットの宮廷と円卓の騎士を手本としたのです。彼は貴族たちと密接な関係を結びました、エドワードは11人の子どものうち何人かを貴族と結婚させ、主な関心事──槍試合とか野外劇とか狩とか、とりわけ戦争をすること──も彼らとともにしました。

 エドワード三世と、たいへん尊敬された彼の息子、黒王子は、戦いにはいつも成功をおさめました。たいへん戦に強く、クレシーの戦い(1346年) およびポワチエの戦い(1356年)に勝利をおさめて、イングランド人にフランス領土のほとんど4分の1を取りもどしました。それは人びとの気分を高揚させ、雄大なものでした.そしてエドワード三世の貴族たちを大いに富ませることでした。
悲劇的なことに、この活発で輝かしい時代は長く続きませんでした。1347年に黒死病(ペスト) がヨーロッパとイングランドに猛威をふるい、人口の3分の1が死にました。1364年以降、新フランス王シャルル5世はエドワード三世に奪われた領土を取り返そうと戦争をはじめました。1374年までに、イングランド額として残ったのはカレー港と南西フランス沿岸の一部だけでした。さらに悲しいことには、黒王子が1376年に没し、病気がちであった父王も翌年に没したのです。もっとも悪いことには、イングランドの王位には、黒王子の息子である10歳のリチャードがつきましたが、彼はやがて第2のエドワード二世となったのです。

リチャード二世 1377‐1399

 リチャードニ世は、エドワード二世と同じように、享楽好きの寵愛にうつつをぬかし、王国の立派な人物を軽んじたので、貴族たちの憎悪の的となりました。リチャードは彼の叔父、ランカスター公、ゴーントのジョンさえも侮辱しました、公は若い王を貪欲で、野心的な貴族たちから守ろうと指導し、助言を与えたのにかかわらず、リチャードは、王は神によって任命されたのであり、好き勝手にふるまえるのだと信じていたのです。貴族たちはこの尊大さに味方することを拒絶しました。そこで貴族たちは、彼の友人を攻撃することによってリチャードを攻撃しました。「無慈悲な」 国会において、5人の貴族 「アペラント(控訴)の領主たち」 がリチャードの友人を反逆罪で告訴しました。彼らは絞首刑となり、引きまわされ、四つ裂きにされました。
リチャードは復讐を誓い、ときを待ちました、それから1397年彼は攻撃に転じました。3人のアペラントの領主たちが逮捕されて殺されました。他の2人は亡命し、そのうちの1人はゴーントのジョンの息子へンリー・ボリングブロークでした。
今やリチャードは狂気の暴君のようにふるまいました。彼と目があった者は誰でもひざまずかなければなりませんでした、また、彼は反乱を鎮圧するために大きな私軍をもちました。さらにリチャードは破滅的な誤りをおかしました。ゴーントが没したとき、リチャードは当然追放されたヘンリー・ボリングブロークのものとなるべき領地を奪ったのです。ただちにヘンリーは彼の領地を奪い返すべくイングランドにもどりました。それは彼が味方に加わった貴族に話した内容ですが、実際はリチャードの王位を奪うことをヘンリーは意図していたのです。リチャードは待伏せされて捕えられ、退位を強制され、ポントフラクト城で餓死させられました(1400年)。へンリー・ボリングブロークがへンリー四世となりました。

〈ランカスター王朝〉

へンリー四世 1399‐1413

 へンリー四世は果てしのない騒動に悩まされた、不幸きわまりない王でした。ウェールズでは反乱が起り、スコットランドでは戦争が起り、議会と金銭上のいざこざが起り、生命をねらわれ、統治に対する反逆が次々と起ったのです。1400年に、ある反乱が鎮圧された後、30人の反逆者が処刑され、切りきざまれた彼らの死体が見せしめのため、ロンドンにさらされました。それにもかかわらず、1403年には、以前はヘンリーを支持していた数人の貴族が反乱を起しました。そのうちの1人、ヨークの大司教は殺されました。そのすぐ後に、ヘンリーは体が麻痩する病気にかかり、人びとは、聖職者を殺したので神の罰を受けたのだとささやきあいました。

 王になる前、ヘンリーは才気のある大胆な貴族であって、その騎士道精神のため、ヨーロッパじゅうで賞賛されていました。リチャード二世殺害の罪にたえず苦しんでいる、神経質で病弱なヘンリー四世は、そのヘンリーとはまるで別人でした。残酷で不正を行う暴君ではありましたが、リチャードは正当な王でした。そのうえ、ヘンリーはリチャードの正当な後継者ではなく、王位の略奪者なのです。へンリーの父、ゴーントのジョンはエドワード三世の三男でした。リチャードには、エドワード三世の二男、クラレンス公ライオネルの血をひく親戚が多くいました──それゆえ、彼らこそイングランドの王になる権利をもっていたのです。後に、これらいとこたちは 「ヨーク党」 として武器をとって立ちあがり、ヘンリー四世の側に立つ 「ランカスター党」 に対して、王位を要求して戦うことになります。これが、バラ戦争として知られる内乱です。

へンリー五世 1413‐1422

 イングランドの貴族が自滅したこの内乱は、もしヘンリー四世の後継者である彼の息子が、すばらしい戦士、ヘンリー五世でなかったならば、もっと早く起っていたことでしょう。1413年に父の後を継いだへンリー五世は、自分こそフランスの正当な王であると要求して、フランスとの戦争を始めたときの恐るべき熱意によってイングランド全土を興奮させました。
へンリーは感動的とも言える勝利をおさめました。彼の1万人の射手たちがフランスの騎士たちをアジンコートで粉砕し(1415年)、その後、勝ち誇ったヘンリーは、フランス王シャルル六世に自分を後継者として認めさせました。1420年にヘンリーはシャルルの娘キャサリーンと結婚しました。

 若年のエドワード三世以来、イングランドの王でこのような行動をとった者はいませんでした。しかし悲劇はすぐ近くまで来ていたのです。1422年にヘンリー五世は没しました。1429年以後、フランス人はジャンヌ・ダルクに鼓舞されて、自分たちの国を取りもどしはじめました。

ヘンリー六世 1422‐1461

 1453年までにほとんどすべてが失われました。そして、さらに悪いことが続くのです。1453年、ヘンリー五世の後継者である、息子のへンリー六世は気が狂ったのでした。平和を愛し、宗教心の厚かったヘンリー六世は強力な支配者ではありませんでした、そして今や、彼のヨーク党のライバル、ヨーク公リチャードが権力を奪おうとしていました。リチャードはヘンリーを支持する 「ランカスター党」 の領主たちに反対され、論争は内乱の勃発へとつながりました。

 ヨーク公はセント・オールバンズにおける初戦に勝利をおさめ(1455年)、へンリーは捕虜になりました。そして、あわれなヘンリーは狂気と正常の状態が交互にあらわれるなかで、ヨーク公にイングランドの統治をゆだねるのに異存はありませんでしたが、頑固で勇気のある彼の妃マーガレットは承服しようとしませんでした。彼女の息子、エドワード王子のために王位を維持しようと決意して、マーガレットは軍を集め、ウェイクフィールドにおいてヨーク党をうちやぶりました(1460年)。ヨーク公は殺され、へンリーは牢から救出されました。しかし、ランカスター党の勝利は長くは続きませんでした。

 ヨーク党はマーガレットの軍隊をトウトンにおいて(1461年)、さらにイングランド北部において(1463年)敗走させました。マーガレットは息子を連れてフランスに逃亡しました。へンリー六世は、たぶんほっとしたことでしょうが、ロンドン塔の牢にもどりました。やがて1461年6月、故ヨーク公の息子、エドワード四世がウェストミンスター寺院において即位しました。

〈ヨーク王朝〉

エドワード四世 1461‐1483

 エドワードは19歳、身長6フィート、金髪、容姿端麗、立派な軍人であり、強い、断固とした性格の持主でした。エドワードは、彼のいとこであるウォーリック伯、強力なリチャードを取りのぞいたとき、この性格を明らかに示しました。1464年、エドワードが、彼が選んだフランスの王女と結婚せずに、イングランド人、エリザベス・ウッドヴィルと結婚したとき、ウォーリンクは激怒しました。彼は反逆者に転じて、マーガレット女王の軍に合流し、イングランドに侵入しました(1471年)。ウォーリックはただちに裏切りの報いを受けました。エドワードがバーネットにおいて彼の軍隊を粉砕し、伯爵は殺されたのです。
マーガレットはテュークスバリーで、この上ない破滅にみまわれます、その地で彼女の息子が死んだのです。マーガレットが囚人としてロンドン塔に到着した夜、ヘンリーは殺害されました、手をくだしたのはたぶんエドワードの弟、グロスター公リチャードでしょう。今やイングランドに平和がもどったので、貿易がふたたび盛んになり、王権は絶対のものとなりました。エドワードは、自らも商人であり、さらにイングランドの5分の1に及ぶまでの王領を確保して裕福になりました。

エドワード五世 1483 リチャード三世 1483‐1485

 エドワード四世は1483年4月に没し、12歳の息子、エドワード五世に王位を譲りました、ここから不思議なことがはじまりました。7月に若いエドワードの叔父、グロスター公リチャードが王位についてリチャード三世となりました。8月以降、エドワード五世と彼の弟ヨーク公の生きた姿は、二度と見られなくなったのです。
リチャードが彼らを殺したのでしょうか。それとも今やランカスター党のリーダー、リッチモンド伯、ヘンリー・デューダーに殺されたのでしょうか。リチャードは、幼君はランカスター一族に対してイングランドを防御できるほど強くないという理由で、王位を奪ったのでしょうか。真相を知る者は誰もいません。たしかなことは、リチャードが王位を守り続ける望みはほとんどなかったということです。事実、彼はヘンリー二世が1154年に即位して以来、イングランドを統治してきたプランタジネット王朝の最後の王でした。
リチャードは信頼され得る統治者になろうと努めました。彼は宮廷が正常に機能するように努め、教会には敬意を表しました、しかし、それも役に立たなかったのです。リチャードには、貴族たちのなかにあまりにも多くの敵がいました、貴族たちは2人の王──ヘンリー六世とエドワード五世を殺害した疑いのある王を信頼しなかったのです。リチャードの立場は、彼の1人息子、エドワードが1484年に死ぬと、さらに弱くなりました。
1485年になると、ヘンリー・テューダーがイングランドに侵入しました、ランカスター党はボスワースでヨーク党を迎えうちました、これがバラ戦争最後の大会戦でした。リチャードは勇ましく戦いましたが、彼の貴族の1人、スタンレー卿が彼を見捨てて、ヘンリーの味方についたとき、彼の運命はさだまったのです。リチャードは逃亡して命を救うようすすめられましたが、それを断り、勇敢に戦って死にました。伝説によれば、スタンレー卿が、リチャードの王冠がいばらの茂みにかかっているのを発見し、それをへンリー・テューダー、すなわち、新しい王ヘンリー七世にわたしたということです。


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