レディバードブックス100点セット
 

 

王と女王2

〈序〉

 1485年、ボスワース・フィールドにおける戦いに勝って、ヘンリー七世が王位についたとき、イングランドの外の世界は刺激的に変りつつありました。古代ローマ、ギリシア文明のルネッサンス(復興)は、それとともに芸術・建築・天文学・科学・医学に関する新しい思想をもたらしていたのです。冒険好きな船乗り、主としてポルトガル人が、はじめてヨーロッパの外の大洋を探険しつつありました。遠隔地以外、人びとが城や城壁に囲まれた町に住む必要は減少しつつありました。
言いかえれば、中世という長い危険に満ちた数世紀の後で、ヨーロッパは落ち着きをとりもどし、文明化されつつあったのです。
火器(小銃、機関銃、火砲などの総称) が発明されて、重い甲冑をつけた騎士や、中世の貴族が保有していた私兵の時代を押し流してしまいました。貴族たちを強大なものにしていた封建制度がほとんど消え失せ、ヨーロッパ諸国の国事に命令を与え、統制していたローマ法王の権力も、以前ほど強大ではなくなりました。
今や、王はその領土におけるもっとも偉大な、もっとも強力な、そしてもっとも重要な人物となりました──それはヘンリー七世には特に都合のいいことでした。
バラ戦争の間、イングランドの王冠は事実上貴族たちの争いのまとの玩具でした、王や王子が残忍な権力闘争のなかで大勢殺されました。このような状況のなかで、ヘンリー七世はイングランドの王冠のみならず、その王冠をいただく人にも名誉と敬意を回復しなければならなかったのです。

〈テューダー王朝〉

ヘンリー七世 1485-1509

へンリー七世以前の7人のイングランド王のなかで、ただ1人ヘンリー五世のみが平和裡に王位につき、ベッドの中で死んだ王でした。へンリー七世は少しは運がよくなるのでしょうか。彼の治世の終りまで、ヘンリーは確信がもてませんでした、王位をねらうヨーク党の敵手たちが、彼の地位を奪おうとあの手この手を使ったからです。そのたくらみのなかには、王位の「正当な後継者」として、2人のペテン師、1487年にはランパート・シムナルを、1497年にはパーキン・ウォーベックを送りこもうとしたこともあげられます。
へンリーは、王位を主張するヨーク党を捕えて、殺したり、追放したり、処刑したりして逆襲しました。その他のごたごたを起した者たちも同じように厳しく扱われました。不従順な貴族たちには重税を課したり、罰金を科したり、その領地を没収したりして、彼の支配に服させました。賢明にもヘンリー王は、一般平民を評議員に選ぶことによって、貴族たちを権力ある地位からはずしたのです。そうすれば、評議員は王から与えられた権威以外には何の権威をもち得ないからです。以前の王は、国会に経費を請求しなければならなかったので、国会の思いのままでした。へンリー七世は輪入品に課税したり、王領の借地人にその土地を借りるまえに多額の金を支払わせたりして、自分の収入を確保しました。
かつてイングランドの王は、強力な戦士か偉大な立法者、あるいはその両者を兼ねそなえた者と考えられていました。今や、王は外国と貿易条約を結んだり、夜遅くまで起きていて王室財産を照合したりする実業家でした。それは輝かしいことでも名誉あることでもありませんが、ヘンリー七世は、そのようにして王室の力をふたたび強力で尊敬されるものにしたのです。というのは、もしも王室の力が弱ければ、バラ戦争の流血と無政府状態がふたたび始まるであろうことを、彼も、また彼の臣下も知っていたからでした。

ヘンリー八世 1509‐1547

 吝嗇なへンリー七世の後をその18歳の息子へンリー八世が継いだとき、新王は新しいルネッサンスにふさわしい真の王だと思われました──新王は若く、端麗で魅力があり、学者と学問的な問題について議論できるほどの教育を受けていました。しかしこの輝かしい外見の下に、残酷な独裁者がいたのです。そのことは、彼が非常にほしがっていた男子を産めないという理由で、最初の后、アラゴンのキャサリンと離婚しようとした1529年以後に明らかになりました。へンリーはキャサリンの侍女、アン・ブーリンとの結婚を望んだのです。しかしローマ法王はヘンリーの離婚を認めませんでした、そして、20年間にわたってへンリーのためにイングランドのめんどうをみてきた賢明なウルジー枢機卿さえも、法王の意志を変えさせることができませんでした。ウルジーは反逆罪で告訴されましたが、1530年に死んだので裁判にかけられずにすみました。やがてヘンリーは、キャサリンに彼女の結婚は合法でないと認めさせようとして、キャサリンとその娘メアリーを虐待しはじめました。キャサリンは認めるのを拒絶しました。最終的に、ヘンリーは法王にかわって自らがイングランド教会の長となり、彼自身の離婚を宣言しました。後に、もう1人の聡明な大臣トーマス・クロムウェルの助けをかりて、ヘンリーはイングランドの修道院を閉鎖し(1536‐1539)、その財産を没収しました。修道士や修道尼は放りだされ、生きるために乞食をしなければならない者も多くいました。
へンリーは今や、人びとに恐れられる恐るべき支配者となりました。彼の不興を招くことは、ほとんどの場合死を意味したのです。トーマス・クロムウェルや、彼の6人の后のうち、アン・ブーリンを含む2人の后、プランタジネット王朝の生き残りの人たちの大部分の運命もそうでした。1547年にヘンリーが死ぬ前に、彼は恐怖をもって見られていたのは当然でした。

エドワード六世 1547‐1553

 へンリー八世の3人目の后、ジェイン・シーモアの息子、エドワード六世は王位についたときわずか9歳でした。これは危険な状況でした、なぜならば、王に近い野心家が権力を手にし、それを私的な目的のために使う好機を得たからです。やがてそのようなことが実際に起りました。まず幼王の叔父、サマセット公エドワード・シーモアは、ヘンリー八世が息子のために確立しておいた摂政政治会議を破棄して、自分自身を護国卿に任命しました。しかし1551年になると、サマセットはノーサンバランド公ジョン・ダッドリィによって倒されました。サマセットも、ノーサンバランドも同じように暴君として支配しましたが、ノーサンバランドの方がはるかに無慈悲でした。ノーサンバランドは人民に新教の新しい教会活動を押しつけるために、残忍に権利を行使しました。人びとが反抗すると、ノーサンバランドはさらに強大な権利を行使したのです。小作人から彼らが食べるために栽培し家畜を放牧していた土地を奪うことを定めた土地法に対して、彼らが抗議したとき、彼は同じ方法を使いました。
やがてノーサンバランドの権力は、1552年にエドワード王が重病にかかったとき、突然危機におちいりました。アラゴンのキャサリンの娘メアリーは、エドワードの後継ぎであり、信心深いカソリック教徒でした。そこで、メアリーをあざむき王位につかせないために、また彼女がカソリック教をイングランドにもちこむのを阻止するために、ノーサンバランドは一つの計画を立てたのです。彼は、自分の息子とエドワードのまたいとこにあたるレディ・ジェイン・グレイとを結婚させようとはかりました。彼は臨終の床にある若い王に、メアリーを廃嫡してレディ・ジェインを後継者に指名するように強制しました。1553年6月6日に、15歳の王はひどく苦しんだ後没しました。しかしその直後、ノーサンバランドは彼の計画に重大なくるいが生じたことを知ったのです。

メアリー一世 1553‐1558

 1553年6月、エドワード六世の異母姉のメアリーが、一般大衆の歓喜のなかでイングランドの女王となりました。人びとはノーサンバランドが彼らにおしつけようとしたレディ・ジェイン・グレイを「女王」として迎えることを絶対に拒絶し、メアリーを王位の真の継承者として心から迎えいれたのです。ノーサンバランドは後に反逆罪で処刑されました。
しかし、即位5年後に人民から嫌われ見捨てられて、メアリー女王は没しました。1558年、メアリーが没した日であり、その結果エリザベス一世が即位した日でもある11月17日は、長年の間、国民の祝日となりました。
何がうまくいかなかったのでしょうか、その答はメアリー自身にありました、彼女は敵である新教徒に対して恨みをはらし、カソリック教をイングランドに復活させようと、冷酷に決意していたからでした。前には教会のものであった土地を購入した地主たちは、メアリーからその土地を教会にもどすよう命令されると激怒しました。新教徒たちは、メアリーが英国教会にふたたびローマ法王への忠誠を誓わせるにおよんで、怒り狂いました。また、1554年にメアリーがカソリック教徒であるスペインのフィリップ王子と結婚して、実質的にはスペイン人に政治を支配させたときには、ほとんどすべての国民が激しく反対しました。ついには、大部分がごく普通のイングランド人である300人の新教徒を、「異教徒」として火刑に処して、メアリーは人民から嫌悪されるにいたったのです。死にいたるまで、メアリー女王は失政をくりかえしたのでした。彼女が深く愛したフィリップは、彼女を愛してはくれませんでした。彼はイングランドとスペインとの連合を強めるためにのみメアリーと結婚したのです。イングランド国民はカソリック教を以前よりもさらに憎みました、そして彼女が生きているうちから、彼女のことを現在まで持続している 「血にまみれたメアリー」 と呼びました。

エリザベス一世 1558‐1603

 へンリー八世とアン・ブーリンとの間に生れた娘であるエリザベス一世が、1558年にメアリーの後を継いで女王となったとき、彼女には2つの利点がありました。まずエリザベスは新教徒でした。次にメアリーの母はスペイン人でしたが、エリザベスは純粋なイングランド人でした。それに加えて、エリザベスは強力でありながら大衆に好かれる君主としての資質をもっていました、というのは、彼女には賢い穏健な政府のための生れつきの才能があったのです。エリザベスは顧問として有能な人物を選びました。バーリー卿として知られるウィリアム・セシルがその人であり、彼は1598年に没するまで彼女に仕えました、また、もう1人の顧問は彼の息子ロバートでした。エリザベスとセシル父子は国会を注意深く、また上手に扱い、国会は今や強力で影響力をもつようになりました。エリザベスは本質的には、かなり独裁君主でした。
しかし彼女は、長年にわたる暴力と激動の後の宗教的安定を確立するという困難な仕事においては特に、国会の協力を得なければならないことを知っていました。
エリザベスは成功しました、国王至上令と教式統一令(1559年)の下で、彼女はカソリック教徒をたいして怒らせずに、徐々に新教を普及させました。たとえば、1552年発行の新教祈祷書は、カソリック教徒も受け入れやすいように変更されました。
エリザベスは賢明にも、国民はイングランドが外国の影響を受けることを嫌っていることや──メアリーの治世中スペイン人が政治を支配したあとなので、それがいちじるしいことを知っていました。メアリーの夫であったスペインのフィリップを含む多くの求婚者がいたにもかかわらず、エリザベスが独身を通した理由のひとつはこのためでした。

 そのかわりに、エリザベス女王は国とその国民と「結婚する」方を選んだのです。エリザベスの宮廷は、イギリスの音楽家、詩人、学者、芸術家などにとって、文化の中心となり、そのなかには作曲家ウィリアム・バード、画家ニコラス・ヒラード、詩人ならびに冒険家のウォルター・ローリィ卿などがいました。この時代は、また、ウィリアム・シェイクスピアやクリストファ・マーローのような偉大な劇作家の時代でもありました。

 エリザベス自身もたいへん魅力的で知性があり、イングランド人であることを誇りに思っていました。彼女はかなり虚栄心が強く短気ではありましたが、忠誠心を鼓舞する才能をもっていました。彼女はまたかなり勇敢でした、1588年イングランドがスペイン人の侵攻によって危険にさらされたとき、エリザベスは自らティルバーリーにおもむき、スペインの無敵艦隊との戦いに出ようとしている乗組員に演説しました 「私は自分がかよわい女であることを知っています」 と、彼女は乗組員に語りかけました。「しかし、私は王の──それもイングランド王の心と誇りをもっています」 と。
これは乗組員たちをおどろくばかりに勇気づけました、そして後日、イングランドの艦隊がスペインの無敵艦隊に対して大勝利をおさめたとき、エリザベスの臣民は自分たちの国、海軍──そして女王をおおいに誇りに思ったのでした。

 この時代はまた、イングランドが世界でますます重きをなしつつあった時代であり、イングランドの船乗りは、アメリカにおける新しく富裕なスペイン植民地内のスペイン人に挑戦しました。有名なフランシス・ドレイクや、ジョン・ホーキンス、マーチィン・フロビッシャーのような船乗りがスペイン人を勇敢に襲撃し、彼らの宝を積んだ船を捕えました。ドレイクは世界一周航海をした(1577‐1580年) 最初のイングランド人となりました、そしてジョン・ホーキンスは、世界でもっとも大きく、もっとも速いガリオン船をデヴォン造船所で設計し建造しました。エリザベス女王は、この勇敢な冒険の時代を体現しているようでした、そしてその結果、彼女は 「太陽の女王」 とか 「栄光の女性」 などの名を与えられたのでした。

〈ステュワート王朝〉

ジェイムズ一世 1603‐1625

 イングランド国民を元気づけたエリザベスの後では、彼女の後継者ジェイムズ一世はいささかショックでした。彼は目が大きくて突出しており、足はひょろ長く、外見はだらしなくて、王らしい威厳をそなえていなかったのです。その上、ジェイムズは外国人だったのです──彼はすでにスコットランドの王ジェイムズ六世であって、ヘンリー七世の上の娘マーガレットの子孫であるという理由でイングランドの王位を継いだのでした。ジェイムズはまた政治にうとく、やがてカソリック教徒と極端な清教徒の両者を迫害して、イングランド臣民を大いに怒らせました。カソリック教徒はジェイムズに対していろいろ陰謀をたくらんだのでした。そのひとつが国会の爆破を企てた1605年の有名な火薬陰謀事件でした。ジェイムズから逃れるために、迫害を受けた新教徒の集団──ピルグリム・ファーザーズ──は1620年アメリカに渡りました。
ジェイムズは 「王様神授説」──すなわち、王は神によって任命されたものであって望むがままに統治できるのだ、という考えを信奉していました──それゆえ、必然的に国会と衝突しました。国会がジェイムズの寵臣や浪費に反対したとき、ジェイムズはその報復として、国会を開かずに統治するという挙にでました(1614‐1621年)。彼は地主から税金を強制的に取りたてたり、公職を売ったりして、金を得たのでした。
1621年、国会は巻きかえしに転じて、ジェイムズの大法官を汚職のかどで、また会計官を反逆罪で告訴しました。両人ともその地位を奪われ、ふたたび公職につくことを禁じられました。それから1624年、ジェイムズは、息子チャールズをスペインのカソリック教徒の王女と結婚させようという、たいへんな不評をかった計画に失敗しました。国会は彼の考えに憤慨しました──そして、今やジェイムズは老い、疲れました。ついに彼は屈伏し、国会が政治に参加することに同意しました。しかし、1625年にジェイムズが没すると、彼の後継者チャールズは彼に論をかけた頑固な敵対者であることを、国会はすぐに発見することになります。

チャールズ一世 1625‐1649

 1649年1月20日、チャールズ一世は、臣民によって裁判をかけられた、ただ一人のイングランド王となり、その10日後には、おおやけに処刑された、ただ一人の王となりました。しかしチャールズは、彼にこの恐ろしい最期を遂げさせるにいたった誤りを犯した、最初のイングランド王ではありませんでした。
チャールズは 「王権神授説」 を信奉しており、政治問題に干渉する評判の悪い寵臣を信用しました。国会がチャールズの政治を批判すると、彼は国会を解散させ、独裁政治を行いました(1629‐1640年)。彼は独自の税を課して金を蓄えましたが、そのなかには違法のものもありました。
これはどれも決して新しいことではありませんでした──国会はジェイムズ一世のときもまったく同じ経験をしていたのです。しかし、今や国会は清教徒によって支配され、彼らはチャールズから王権を奪おうと欲していたのです。チャールズはどうかというと、非常な頑固者で屈伏しようとはしませんでした。1642年彼は成り上がり者の清教徒をこらしめようと決心し、彼らのうちの5人を逮捕しようと、武装した衛兵を連れて下院に押しかけました。しかしその5人は警告を受けていたので、身をかくしていました。
王と国会とはお互いにまったく対立しました。起り得る結末はただ一つ──内戦でした。はじめのうちは、チャールズが勝利をおさめるかに見えました、1642年、「王党」 軍がエッジヒルにおける最初の大会戦に勝ったあとは、とくにそう見えました。しかし、国会派はすぐに高度な訓練を受けた新しい軍隊──「新型」 陸軍や、オリヴァー・クロムウルによって訓練された 「鉄騎兵隊(鉄の横腹)」 を手中にしました。チャールズの王党軍は1644年にマーストン荒野において、1645年にはネィズビーにおいて打ちまかされました。
1646年、チャールズはスコットランド人に自らを引き渡しましたが、彼らはイングランド人に彼の身がらを売り渡しました。チャールズは1647年に逃亡しましたが、1648年にふたたび捕えられ、1649年、自らの臣民に対して戦争をしたかどで、ウェストミンスター・ホールにおいて裁判にかけられました。チャールズはその法廷には彼を裁く権利がないと主張して、告訴に答えることを拒絶しました。68票対67票で、法廷はチャールズに死刑を宣告したのです。

オリヴァー・クロムウェル 1653‐1658

 チャールズの処刑後、国会は君主制を廃止し、イングランドを共和国であると宣言しました。しかし、真の権力は軍隊およびオリヴァー・クロムウェルにありました。1653年、彼は護国卿になりました。やがて不思議なことに、歴史はくり返しはじめたのです。クロムウェルは国会と衝突したのです。国会はクロムウェルに金を出すのを拒絶し、彼の政治を批判しました。クロムウェルはチャールズと同じように国会を解散し、国会不在の統治を行うことによって反撃しました。
クロムウェル統治下において、陸海軍は極めて強大となり、海上においてはイングランド軍の艦隊はオランダ軍に対して大勝をおさめました、しかしながら国内においては、イングランドは陰うつな、楽しさのない国になりつつありました。劇場や居酒屋は閉鎖されました、清教徒はそれらを罪深いものと思っていたからです。人びとはゲームをしたり日曜日に出かけたりすると、罰金をとられました、そして、色あざやかなドレスやお祭騒ぎは眉をひそめられました。
まもなくイングランド人は清教徒や共和制にいや気がさし、ふたたび王を待ちのぞんだのです。

 1658年、クロムウェルは没しました。彼の息子である後継ぎのリチャードは、軍隊や国会と仲たがいをしてそれらを統制することができず、イングランドはふたたび混乱状態におちいるかに見えました。なすべきことはただ1つだけでした。追放されていた故王の息子である、後継ぎのチャールズ王子を呼びもどさなければなりませんでした。

チャールズ二世 1660‐1685

 1660年5月29日、30歳の誕生日に、チャールズ二世は大歓迎のうちにロンドンに入りました。イングランドがふたたび君主国になって、誰もがうれしそうでした、とりわけチャールズが、誰でもその人自身の宗教を奉ずる自由があると約束し、陰うつな清教徒が弾圧した楽しみへの回帰をもたらしたからです。チャールズがすすんで国会に対して政治に関する助言を求め、それに注意を払ったので、国会も満足でした。
しかし物事はそううまくは運びませんでした。多くの王党派は清教徒に復讐したかったのです、そして清教徒もカソリックも厳しく迫害されました。チャールズはどうかというと、彼もつねにその綽名どおりの快活な 「陽気な君主」 であるわけではありませんでした。チャールズは追放されていた間、何年もつらい年月を送ってきていたので、自分でも書いているように「二度と旅には出るまい」と決心していました。それで、チャールズは不評をかうことがわかっていた彼の2つの信条を心に秘めておきました。その2つとは 「王権神授説」 の信奉と、ローマ・カソリック教への傾倒でした。しかし国会は、内戦がふたたび起ること、ならびにオリヴァー・クロムウェルのような軍事的独裁者がふたたび現れることを恐れていました。そのためチャールズ二世は、かつて父王が罰せられたように国会に罰せられることなく、ときには独裁的に行動することができました。

 父王と同じく、チャールズはときおり国会を開かずに統治しました。さらに彼は王党員に、州の法廷の治安判事とか町議会議員とかの権力の座につくことを保証しました。チャールズはさらに、彼の弟ジェイムズの王位継承権を奪おうとする企てをうちやぶりました。これは決して容易な仕事ではありませんでした、ジェイムズは狂心的なカソリック教徒で、しかもチャールズのようにその信仰をかくすことがなかったからです。

ジェイムズ二世 1685‐1688

 1685年、ジェイムズ二世が王位についたとき、彼の目的は非常に危険なものでした。彼はイングランドをふたたびカソリック教の国家にして、王が全権力を有する 「王権神授説」 に従って統治することを意図しました。ジェイムズは自分の意にそわない、いかなる法律も無視すると公言し、そして国会が抗議すると、国会を解散しました。
次にジェイムズは、カソリック教徒を権力ある地位につけました。たとえば、カソリック教徒の1人はアイルランドの代官卿になりました。ジェイムズがカソリック教に不利な法律を破棄したとき、カンタベリー大司教と6人の司教が抗議しました。ジェイムズは彼らを逮捕して裁判にかけました。言うまでもなく、ジェイムズは怒り狂った臣民に非常に評判が悪かったのですが、誰も武器をとって王と内戦をかまえようとはしませんでした。ジェイムズの娘で新教徒のメアリー王女がやがて王位につくであろうと思い、イングランド国民はこの不法な王を耐え忍ぼうと思っていたのです。

 やがて、1668年にすべてが変りました。ジェイムズの2番目の妻、カソリック教徒であるモデナのメアリーが息子を出産したのです──それはカソリック教を奉ずる君主の王統が続くことを意味しました。
それを阻止するために、前のロンドン司教を含むおもだった新教徒は、メアリー王女の夫、オレンジ公ウィリアム(オランダ) に、イングランドに来てカソリックの脅威から国を救ってくれるようひそかに頼みました。
ウィリアムは1688年11月に軍隊をひきいてイングランドに進攻しました、ジェイムズがろうばいしたことには、彼自身の軍隊が彼を見捨てて侵入軍に加わったのでした。ジェイムズは彼も父王と同じように自分も首をはねられることを恐れ、フランスへ逃れました。
その数週間、誰も王位についていませんでした。これは空位期間と呼ばれています。

ジェイムズ二世の後継者たち

ウィリアム三世 1689‐1702
メアリー二世 1689‐1694
アン 1702‐1714

 新教のイングランドにとって、オレンジ公ウィリアム以上の擁護者はいませんでした、彼はヨーロッパにおけるもっとも偉大な新教の保護者だったのです。また、ウィリアムはチャールズ一世の甥で、ステュワート家の一員でした。ウィリアムとその妃メアリーが連帯して王と女王になり、メアリーの妹アンを後継ぎにするという協定が結ばれました。
しかし、最初の国会は王権に制限を加え、「王権神授説」 を排除することを決議しました。今や国会は王室の経費は規制し、王は平和時に軍隊を使ったり、裁判官を解雇する際には、まえもって国会の承認を得なければならなくなりました。新国会は3年ごとに召集されることになり、王位継承令(1701年) によって、それ以後の君主はイングランド教会に属さなければならなくなったのです。言いかえれば、カソリック教徒は王位につくことができなくなり、王および女王は 「立憲」 君主となり、国会の助言者として、またそのパートナーとして機能することになったのです。
イングランドの最初の立憲君主は、ウィリアム三世及びメアリーニ世として、1689年に王位につきました。メアリーはおとなしくて野心のない女王で、ウィリアムが国会や政治問題を処理してくれるのに満足していました。彼らの結婚は政治的なものでしたが、ウィリアムは妻を非常に愛しており、彼女が1694年に天然痘で死んだときには嘆き悲しみました。
そのときまでにウィリアムは、少しは流血を見ましたが、スコットランドの王として承認されました。

 スコットランド高地の隊長の1人、グレンコーのマクドナルドはかつてはウィリアムに反抗していましたが、他の族長とともに彼に忠誠を誓いました、不運なことにそれは遅すぎました、彼の一族は1692年に虐殺されたのです。
その恐ろしい事件は、ジェイムズ二世の1688年に生れた息子、ジェイムズを支持するジャコバイト党の力を強めるのを助長し、「無血革命」 へと続くのです。
にもかかわらず、ウィリアムが1702年に亡くなったとき、アンは反対もなく女王になりました。

 1714年まで続いたアン王女の治世は、聖ポーロ大寺院の建築家クリストファー・レン卿、科学の天才アイザック・ニュートン卿、イングランド軍隊の大英雄の一人マールボロー公爵など多士済々でした。
アン王女自身はとくにめざましいところのない女性で、主な楽しみはトランプ遊びとお茶を飲むことでした。アンは父ジェイムズ二世を見捨てたことをやましく思っていました、しかし、彼女が信奉している英国国教会が勝利を得たことはうれしく思っていました。アンは国会から支給される5万ポンドの年収のいくらかを、貧しい牧師のための 「アン王女の下賜金」 を設立するために使いました。
悲劇的なことに、1700年までにアンの17人の子どもはみんな死んでしまいました、そして、チャールズ一世のカソリック教徒の子孫が現存していたので、彼女の後継ぎについての論争が起るかもしれない恐れが出てきました。そこで国会はアンの後継ぎとして、ジェイムズ一世の孫娘であるハノーヴァー選挙侯夫人、新教徒のソフィアを選びました。
ソフィアは1714年にアン女王より8週間早く死にました、そして、その年の9月の霧の深い日にグリニッジに上陸した新しい君主はソフィアの息子で、彼はハノーヴァー王朝の最初の王、ジョージ一世となりました。

ハノーヴァー王朝の5人の王  1714‐1837

 ハノーヴァー王朝の5人の王の治世時代は、ブリテンとヨーロッパの歴史のなかでもっとも重要な時代でした。ブリテンは産業革命の出現(1750‐1840年) とともに強大な経済国家となったのです。
フランス皇帝ナポレオンとの戦争終結の後、1815年には、ブリテンの海軍は世界最強でした。ブリテンの貿易はふるい、海外の植民地も増大しました。ブリテンはまた、もっとも 「近代的」、「民主的」 な国であり、社会改革におおいに関心をよせました。
これらハノーヴァー王朝の王たちは、もっとも人気のある君主ではありませんでした。実際、彼らは乱暴な一族であって、漫画家や作家の嘲笑の種になることもよくあったのです。ハノーヴァー王朝の王とその一族は威厳がなく、行儀作法も下品でした。公衆の面前でつばを吐くという恐ろしく不快な癖を持っていました。王はその後継ぎと激しく争い、恐ろしい侮辱の言葉を交したりもしました。

ジョージ一世 1714‐1727

 ハノーヴァー王朝の王たちはブリテンのすべての人に受けいれられたわけではありませんでした。ジョージ一世が王となった1年後の1715年には、ジェイムズ二世の息子、「老僭王」 ジェイムズを王位につけることを目的とした、ジャコバイト党員の反乱が起りました。反乱は失敗に終りました。
ハノーヴァー王朝の最初の王は、イングランドの王になることをたいして喜びませんでした。ジョージ一世は英語を話せませんでしたし、わざわざ習おうともしなかったのです、そのため、政府の大臣に会うという役目が「長官」、「総理大臣」 に引き継がれました。ジョージ一世および、その息子ジョージ二世は 「立憲」 君主であることを嫌っており、国会を非常に迷惑がっていました、2人とも、彼らのハノーヴァー選挙侯領の方が好きでした、そこでは彼らは 「絶対の」 統治者だったからです。

ジョージ二世 1727‐1760

 ジョージ二世の治世の間に、国会に対する王の影響はますます減少しました。1745年にはスコットランド人が、それが最後でしたが、イングランドに侵入しました。その侵攻を指揮していたのは 「ボニー・プリンス・チャーリー」 でした、彼はジェイムズニ世の孫で、ジョージよりは王位につくことを要求する権利を持っていたのです。しかし、彼はカロードンにおいて敗れ、彼の言い分は永久に失われました。ジョージ二世はたいへんこわがって、ハノーヴァーへ急いでもどろうと荷造をさせたと言われています。
この2度目の反乱が失敗に終った後、それを支持した高地のスコットランド人は残酷な罰を受けました。

ジョージ三世 1760‐1820

 ジョージ三世はハノーヴァー王朝のなかで、最初のイングランド生れの君主であり、また英語を上手に話すことができた最初の王でもありました、彼は1760年に王位につくと、イングランドに 「私的な」 王室規則を再導入しようとしました。彼は自分自身の政治団体 「王党」 を作ろうとし、賄賂を使うことによって、これを成し遂げたのです。そしてこの王党を通して、政府の大臣として統治しました。しかし、この私的な統治も、ジョージ二世とその大臣ノース卿がアメリカの植民地に対してその同意も得ずに税金を課そうとした後に、終りました。この課税の試みが、アメリカ独立戦争の主な原因でした。そして1783年、植民地がブリテンから自由をかちとると、ジョージ三世の私的な統治はついに終ったのでした。
フランスにおいては1789年に革命がぼっ発し、ナポレオンの下でフランスはヨーロッパじゅうで勝利をおさめました。ブリテンだけが征服されないでいました、そしてついにナポレオンは、海においてはトラファルガー会戦でネルソンによって、陸においてはワーテルローの会戦でウェリントンによって打ち破られました。ジョージ三世の統治は60年間続き、これはブリテン史上二番目に長い記録となっています。

ジョージ四世 1820‐1830

 ハノーヴァー王朝の王の宮廷は、そんなに教養あるものではありませんでした、彼らは前任のステュワート王朝の洗練さも優雅さももっていなかったのです。リージェント王子、後のジョージ四世が美しい衣服や立派な家具や壮麗な邸宅に趣味をもつようになってはじめて、ハノーヴァー家は堂々とした生活をするようになりました。
狂気のジェイムズ三世にかわって、1811年以来統治していたリージェント王子が1820年に自らも王になったとき、彼の戴冠式はもっとも立派な、かつ壮麗なものでした。新王自身は 「楽園の華麗な鳥」 のようだと描写されています。しかしブライトン・パビリオンの建築などの浪費のせいで、彼は国民に人気がありませんでした。
イングランドはジョージ一世から四世の統治の下で、変りつつありました。蒸気機関が発明され、紡績工場が建てられました。
1825年、スチーヴンソンは最初の鉄道を建設しました、また父ジョージ三世の治世時代に、デルフォードやマッカダムのような人物が立派な道路を建設しはじめ、旅行ははるかに容易になっていたのです。

ウィリアム四世 1830‐1837

 ジョージ四世の後を継いだ彼の弟ウィリアム四世は、先王とはまったく異なっていました。彼は立派な式服とか、兄が開いていた大宴会をいいものとは思っていませんでした、1830年に王位についたとき、戴冠式を行わずにすませてもよいと示唆したほどです。これは奇妙なことでした、ウィリアム四世は王になることをわくわくするほど喜んでいたからです。彼が王位についた最初の日に、彼はたいへん興奮して馬車にとび乗り、通行人に精いっぱい笑いかけながらロンドの街路を走ったほどでした。
1832年に大改正令が可決されて、国会議員選挙の投票権が一定の資格をもった戸主に与えられました。1833年には、ブリテン領土内では奴隷制度が廃止されました。史上最長の治世は、1837年ウィリアム四世が没し、彼の18歳の姪ヴィクトリア女王が王位についたときから始まるのです。

ヴィクトリア女王 1837‐1901

 評判がかんばしくなかったハノーヴァー王朝の治世のあとは、君主国がより尊敬されるものとなる好機でした。それが、ヴィクトリア女王と彼女の夫サクス・コーバーグ・ゴータ公アルバート殿下の意見でした。ヴィクトリアとアルバートは、4人の息子と5人の娘の家族とともに立派な生活を送り、子どもたちの多くは、ヨーロッパの王室と縁組をしました。ヴィクトリアもアルバートも不道徳な行為を是認しませんでした。その傾向があまりにも強く、アルバートは、王位継承者である彼の息子エドワードが女優と恋愛関係にあると知ると怒り狂いました。
アルバートはイングランドでは人気がなく、1857年になってやっとヴィクトリアの 「夫君」となったのですが、女王には大きな影響力をもっていました。ヴィクトリアは端麗な夫を熱愛していました、1861年に彼が死ぬと、彼女は悲しみに打ちひしがれました。彼女は喪に服するために閉じこもり、長期間おおやけの場に出ることを拒絶しました、長生きをした彼女は、死ぬときまでアルバートの思い出のために黒い服を身につけていました。
ヴィクトリアは多くの点で、かなりハノーヴァー的でした。彼女はハノーヴァー家特有の頑固さと激情の持主でした、また、ときには残酷で狭量でもありました。ハノーヴァー王朝の王たちと同じように、彼女も自分の後継者を嫌っていました、そして、彼が抗議したにもかかわらず、政治問題に参加させませんでした。しかし、ヴィクトリアは彼女の臣民に対して強い義務感を持っていました。時がたつにつれて彼女の臣民はますます増大しました、ブリテン帝国は彼女の治世の間に非常に大きくなり、ついには、その国土も人□も地表の4分の1を占めるにいたったのです。

 アルバートはヴィクトリアに鉱山で働く子どもたち、工場内の過酷な労働条件、多数の人びとが耐えしのばなければならない不潔な生活条件などに関心を持つようにとすすめました。アルバートは、労働者階級の人びとが、快楽を好む利己的な貴族階級よりも価値があり王室に忠実であると信じており、ヴィクトリアもその意見に賛成でした。ヴィクトリアは自分のことを親切な母親とみなして、臣民を指導し保護すべきではあるが、あまり自由を与えてはならない子どもと見ていたのです。これが、ヴィクトリアが労働階級の人びとや女性に選挙権を与えるというような、急進的かつ自由な考えを認めなかった理由でした。
ヴィクトリアはもちろん立憲君主でした、しかし、彼女は政治について激しい意見を有し、彼女の統治時代の政府を率いていた総理大臣のことになると激しい好悪の感情を有していました。ヴィクトリアは、例をあげればウィリアム・グラッドストーンをひどく嫌っていました、彼はかたくるしく、気どっていて、ヴィクトリアの 「保守的」 な嗜好からすれば、あまりにも自由主義的だったからです。一方、ヴィクトリアはベンジャミン・ディズレイリーを礼賛しました、彼はつねに彼女に敬意を表していたのです。ディズレイリーは、1877年にヴィクトリアを 「インドの女帝」 にし、世界じゅうでブリテンの支配力を増す政策をとり続けました。ディズレイリーは1881年に死に、ヴィクトリアは嘆き悲しみました。しかし1898年にグラッドストーンが死んだときには、息子たちが葬儀の際彼の棺を運んだという理由で激怒しました。
このときまでに、ヴィグトリア女王の治世は他のどのイングランドの君主よりも長く続いていました、1897年には、彼女の即位60周年を祝う記念祭 「ダイヤモンド・ジュビリー」 がブリテン帝国をあげて盛大に行われました。ヴィクトリアはその後、さらにほぼ4年間王位にあり、1901年1月22日81歳で没しました。

エドワード七世 1901‐1910

 1901年に王位についたとき、エドワード七世は60歳近くになっていました。そのため臣民は彼のことをすでによく知っており、彼を敬愛していました。
魅力的で機知にとんだエドワードが好きになることは当然でした、彼は宴会や劇場や競馬場で楽しく過すのが好きでした。王子であったときも王になってからも、エドワードは冷淡でもごう慢でもなく、しかもつねに他人の感情に気を配りました、特に貧しい人たちの苦しみに気を配ったのです。
エドワード王には、人びとをくつろいだ気持にさせるやり方で、彼らと付き合う才能がありました、短い治世の間に、彼は国家間の友好を増進しようと個人的におおいに努力しました。彼は、事実 「調停者エドワード」 として知られるようになりました。
エドワードがそんなに心温かく、好ましい人物になったことはおどろくべきことでした、彼の子ども時代はみじめで欲求不満を起させるようなものだったからです。彼は息ぬきの時間もなしに長時間勉強することを強いられました。しかしエドワードは生れつき学問には秀でてはいませんでした、それで両親は彼を愚かで怠惰な人間だと思ったのです。彼らは、彼にまったく慈愛や愛情を示しませんでした、彼が愛情をかけるにあたいしないと思ったからです。
このような子ども時代を送ったため、エドワードは自分の子どもたちには幸せな家庭生活を送らせようと決めていました。この点においては、エドワードは大成功をおさめました、1910年、彼が没したとき、彼の息子であり後継ぎでもあったジョージ五世は 「私は最良の友であり最良の父である人」 を失ったと悲しみに満ちて書いています。エドワードの臣下もまさに同様に感じたのでした。

ジョージ五世 1910‐1936

 ジョージ五世は父のエドワード七世とはたいへん異なっていました。ジョージは物静か、まじめ、少し内気で、立居振舞はややかたくるしいところがありました。訓練を受けて彼は海軍の将校になり、後には 「水兵王」 として知られました。彼の海軍将校の経歴は1892年に彼の兄が死んで終止符を打たれることになりました、彼は将来の王が知らなければならない歴史、各国語、その他の課目の勉強に専念しなければならなかったのでした。
ヴィクトリア女王とアルバート殿下と同じように、ジョージ王とその妃メアリーは、子どもたちと尊敬にあたいする家庭生活を送り、心をこめて王室としての義務を果すことに専念しました。その義務には多くの公務が含まれていました、今や王室は、新しい橋の開通式、新築建造物の開所式などの式典を行うことや、病院を訪問することが期待されていたのでした。
このような公務を通して、ジョージ王とメアリー妃はよく知られるようになり、一般大衆に尊敬されるようになったのです。さまざまな危機が次から次へと起り、ブリテンが第1次大戦(1914‐1918年) に巻きこまれ、その後、ストライキや失業問題や社会不安が続いたときに、彼らの人望は非常に貴重なものとなりました。
これらすべてを通して、ブリテン国民はジョージ五世のなかに、祖国をこの上なく愛する良心的な王の姿を見るように思ったのでした。1935年、ジョージ五世が25年間王位にあったことを祝って即位25年祝典 「シルバー・ジュビリー」 が開かれたとき、国民は熱狂的な祝意を示しました。しかし悲しいことに、わずか8か月後に祝典の喜びは追悼に変りました、1936年1月にジョージ王は没しました。

ジョージ五世の息子たち 1936‐1952

エドワード八世 1936

 1936年には、イングランドに3人の王が在位した年でした。1月にジョージ五世が没すると、彼の後継ぎがエドワード八世になりました。しかし困ったことに、エドワード八世はその新しい地位を嫌い、王室の儀式をかたくるしく退屈なものだと思ったのです。彼は皇太子でいることを好みました、皇太子のときは、世界を旅し、あらゆる階級の人びとに会い、イングランドのために王室大使のようなものとして行動したのでした。
その変化にとんだ生活は、エドワードが王となったときに終りました。さらに悪いことには、保守的な政府とうまくやっていくには、彼はあまりにも自由主義的な精神の持主でした、また、彼はアメリカ人のウォーリス・シンプソン夫人との結婚を望んでいました、彼女は王妃として受けいれられるはずはありませんでした。シンプソン夫人は離婚しており、イングランド国教会は離婚を認めていなかったからです。王は、王位かシンプソン夫人かの選択を迫られました。エドワードはシンプソン夫人を選び、1936年12月11日に王位を去ったのです。
このことは国民にとって大きなショックでした。愛する人のために王が王位を捨てるのはとてもロマンティックだ、という国民もいましたが、エドワードはその義務を捨てたと考え、彼に失望した国民も多かったのです。
そこで、エドワードの後を継いでジョージ六世を名乗った彼の弟アルバートは、君主国に対する尊敬を回複しなければなりませんでした。このことは、ヨーロッパがまた戦争の脅威にさらされている時期になされなければならなかったのです、そしてジョージ六世治世の最初の年は大きな不安をもつ年となりました。さらに、ジョージ六世はその父のように海軍軍人としての教育を受け、君主になるための教育は受けていませんでした、また、彼は性格的に内気で、どもりでもありました。

ジョージ六世 1936‐1952

 しかし新王は責任感が強く、またこの上なく魅力的な妃エリザベスと、「小さな王女たち」として知られる、2人の娘に助けられ支えられました。新王の一家はすぐにたいへんな人気を得ました、そしてラジオ放送を通してジョージ王が直接国民に話しかけられるようになって、さらに人気は高まりました。事実、国民がラジオのまわりに集まって王の特別なメッセージにききいることが、クリスマスの恒例の行事となりました。
君主国とその国民とを結ぶその絆は、ドイツとの第2次大戦の間(1939‐1945年) にさらに重要なものとなりました。ロンドンが激しい爆撃を受けたときも(1940‐1941年)、ジョージ王とその家族はロンドンに留まって、国民の敬愛と尊敬をかち得ました。爆撃はロンドンにおける王の居城、バッキンガム宮殿に実際に落ち、王と王妃はかろうじて死をまぬがれたこともありました。大空襲の後、お二人はロンドンの爆撃された地域を訪れて、家を破壊された人びとや、親族を失った人びとを慰問しました。ジョージ王はまた、軍の部隊や、軍需工場や、北アフリカとマルタ島などの海外の戦場を訪れました。戦争が1945年に勝利のうちに終結したとき、王室に喝采をおくるために、大群衆がバッキンガム宮殿の外に集まりました。
思いもかけず兄の後を継いで王となったときには、ほとんど無名であったジョージ六世は、その日、ブリテンでもっとも人気のある人の一人となっていました。

エリザベス二世 1952‐

 エリザベス二世が1952年に王位についたとき、ブリテンは、彼女の父がジョージ六世として15年前に即位したときとは大きく変っていました。
1945年以降の福祉国家の建設は、貧富の差を縮めるのに役立ちました、そしてブリテンはもはや帝国の中心ではなくなりました。ジョージ六世は非常に人気がありましたが、君主国とその宮廷はまだ少し形式的で一般大衆とはかけ離れていました。それは 「近代化」 されなければならなかったのです、それを成し遂げたのが、1947年にエリザベス女王と結婚したエジンバラ公フィリップ殿下でした。フィリップの影響で、彼らの子どもたち、チャールズ、アンドリュー、エドワード、アンは、現女王のように家庭で個人教授を受けるのではなく、みな学校に通いました。王室一家は今までになく国民の生活に密接な関係を持ちました、バッキンガム宮殿を訪れるのは、もはや以前のように上流階級の人ばかりではなくなりました。今や、訪問者はあらゆる分野、あらゆる階層の人びとです。王室一家はまた大いに旅行をするようになり、外国へ 「親善の」 旅に出かけました。
女王とその家族は現在、国の 「大使」 として熱心に働き、慈善団体やその他の団体の後援者となっています。大部分の国が王や女王ではなく、大統領をいただいている世界のなかで、エリザベス二世は非常に人気があり、尊敬されています。このことは、1977年、彼女の即位25周年祝典が盛況のうちに行われたことで明らかです。1千年前、アングロサンソン人は、君主制には 「魔力」 があると信じていました。ブリテンの君主国はその当時とはすっかり変りましたが、その 「魔力」 のあるものは現在でも残っています。


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