レディバードブックス100点セット
 

 

クリストファー・コロンブス

 コロンブスは、1492年8月3日にスペインのパロスという小さな港から出航したとき、歴史の流れを変える航海を開始したのでした。
このコロンブスの物語は、人類の長い歴史のなかでも、もっとも重要なできことを扱った物語の1つです。
クリストファー・コロンブスの正確な生年月日は、わかっておりませんが、1440年から1450年の間にイタリアのジェノバで生れました。ジェノバは港町でしたので、コロンブスは港に出入りする船をながめたり、船乗りたちと話をしたりして成長したにちがいありません。
当時の船は、もちろん帆船で、今日の船よりもずっと小さくそれらの帆船は、あざやかに塗られ、帆も色つきで、船尾は高くなっていました。船によっては、ふちのまわりが地上の城のように、胸壁をめぐらしたものもありました。
コロンブスが40年後に新大陸発見の大航海をしたときも、やはりこのような帆船でした。

 コロンブスの小さいころのことは、ほとんどわかっていません。コロンブスの息子が書いた書物には、コロンブスはパビア大学の学生だったと書いてありますが、コロンブス自身は14歳のときにはすでに船乗りになっていたと言っています。たぶん、コロンブスはその年齢のときには船乗りだったことでしょう。というのは、当時若者たちは定職につく前にいろいろなことをしていたからです。コロンブスの父親は織物工でしたので、しばらくの間コロンブスは家業を手伝ったことでしょう。
どうしてコロンブスが家業を継がなかったのかわかりませんが、おそらくコロンブスは海の神秘に魅せられてしまったにちがいありません。当時の人びとは、海岸から数マイル以上も離れた外洋については何も知りませんでした。
コロンブスが乗り組んだ様々な航海で、彼はアフリカの西海岸へ行き、あやうく海賊につかまりそうになったり、北上してスペインやフランスの海岸へも行きました。また、イギリスを訪れて、たぶんアイスランドまでも航海したはずです。

 1479年ごろ、コロンブスは、地図でみるとマデイラ近くにあるポート・サント島に移り住みました。この島は、ポルトガル領でした。
この島でいろいろなことが起り、コロンブスはますます西方の未知の海を探険する決意を固めました。
まず最初のできごとは、船長で、しかも有名な海洋探険家だったバーソロミュー・ペレストレロの娘と結婚したことでした。コロンブスはこの義父から海図と航海道具をゆずり受け、またマデイラ西方の海洋の潮流や風のことも教えてもらいました。
コロンブスは、ポート・サント島にいる間、地図や海図を複製したり作ったりして生活していました。もちろん、コロンブスの作った地図や海図はアメリカ大陸のかかれていない不完全なものでした。
当時の人はだれも、ポート・サント島と日本の間に何があるのか知りませんでした。コロンブスは、海図を描いたり広い海をながめているうちに、そのなぞを発見したいと思うようになりました。

 コロンブスは、地球は丸いことを知っているか、少なくとも丸いと信じていました。地球を一周した人はだれもいませんでしたので確かなことはわかりませんでした。しかし、コロンブスは、西の方向にまっすぐ航海してゆくと、日本に着くだろうと思いました。日本にはもうすでに他の探険家たちが東方への陸地と海路で到達していたのです。
ポート・サント島と日本の間に広大な大陸があるとはだれも思っていませんでした。しかし、マデイラやポート・サント島の海岸に、見なれないものが流れついたりしていましたので、島の人びとは、西の方に陸地があるにちがいないと思っていました。
コロンブスは、よく港へ行って船乗りたちと話をしてすごしました。そこで、彼は不思議な彫刻の木片や、1節に1ガロン(約3.8リットル) もの水が入るほどの巨大なとうきびの茎を見せられたのでした。今までにだれもそのようなものを見たことはありませんでしたから、人びとは、海の向うの未知の陸地からながされてきたものと思いました。

 コロンブスは、その未知の大陸をさがそうと西方に航海することを決意しました。しかし、コロンブスは貧乏でしたので、まず船を提供してくれる人を探さなければなりませんでした。
そこで、ポルトガルのジョン王に依頼しました。ジョン玉はコロンブスの話を熱心に聞いてはくれましたが、結局コロンブスへの援助は断りました。それからまもなくして、コロンブスに内緒で、コロンブスから聞いた未知の豊かな大陸を見つけに、自分の船員たちを乗り組ませた船を1そう航海に出したのでした。
このようにジョン王は卑劣なことをしましたが、なんの利益も得られませんでした。出航してから数日後に、船員たちはうちしおれて帰ってきたのです。
ジョン王にだまされたことを知ったコロンブスは、ポルトガルを離れてスペインへ行きました。
当時、貧しい者がスペインの王や女王に接見することは、とてもむずかしいことでした。そのため、コロンブスは2年間も待たなければなりませんでした。ようやく、宮廷にむかえられたコロンブスは、王から船が与えられるという願いがここでかなえられることを望みました。

 しかし、コロンブスは見込み違いをしていました。というのは、当時スペインは、国を占領していたムーア人と戦いの真っ最中だったのでした。スペイン王は親切にコロンブスを迎えてくれましたが、コロンブスを援助するかどうかを審議する委員会を作るように命じただけでした。
この委員会は、スペインの貴族と僧侶で構成されました。コロンブスは、委員会で何日も何週間もの間、彼らと議論したり嘆願したりしましたが、その間、宮廷が移動する度に彼も移動しなければなりませんでした。
この委員会は少しも急いでいませんでした。委員の中には、おそらく地球が丸いということを信じていないものさえいました。また他の委員は、もし地球が丸いとしても、コロンブスが往路は丘を下るように航海できても、帰りには船でのぼることは不可能だから、二度ともどってこれないだろう、と考えました。委員会が結論を出すまでに4年間もかかりました。王への報告は、コロンブスの提案した航海は 「無益で、実行不可能」 というものでした。

 委員会の決議が出される4年の間、コロンブスはむだにすごしていたわけではありません。彼は委員会の動向を見ていたにちがいなく、船の入手できる他の方法がないかさがしていたのでした。
ポルトガル王は援助を拒否し、スペイン王の委員会に行く手をはばまれてしまいました。しかし、スペインとポルトガルだけが、船と勇かんな船乗りを持っているわけではありません。
コロンブスには、バーソロミューという弟がいました。2人は相談して、コロンブスがスペインに残って委員会でかけあっている間、バーソロミニーはイギリスへ援助を求めにいくことになりました。
チューダー王家の初代のイギリス王へンリー七世は、王座について3年目でした。たいへん用心深い人で、特にお金にはそうでした。へンリー七世は、バーソロミューと会って辛ぼう強く話を聞きましたが、援助をしても報酬の見込みは不確かでしたので、船を提供することを断りました。
もし、ヘンリー七世がそれほど用心深くなかったならば、イギリスは南アメリカ大陸を植民地にしていたかもしれません。

 イギリスの援助を受けられなかったことをバーソロミューはコロンブスに報告すると、今度はフランスへ渡ってシャルル八世に援助を求めにいきました。しかし、バーソロミューはまた失敗しました。
そのころ、コロンブスもまたスペインで絶望していました。スペイン王の要請で設けられた第2次委員会は、第1次委員会で拒否された決議文を是認したことを申しわたしました。
スペインからの援助は絶望的だと判断したコロンブスは、弟と合流するためにフランスへ向かいました。旅の途中、コロンブスは、数年前に親切にもてなされたパロス近くの僧院で休息をとりました。このラ・ラビダの僧院に滞在したことが、コロンブスに転機をもたらすことになったのです。
この僧院には、以前スペイン女王の神父をしていたファン・ベレスという修道士がいたのです。この修道士はコロンブスを信じて、コロンブスが援助をしてもらえるように女王に手紙を書いてくれたのでした。
このことは、コロンブスにとって思いもよらない好結果をもたらしました。スペイン女王は、コロンブスにお金を送り適当な服と馬を買って会いにくるよう、言ってきたのでした。
もはや、委員会は必要ありませんでした。

 スペインのイザベラ女王は、コロンブスと単独会見して、コロンブスの計画にたいへん興味を持ちました。その後コロンブスはふたたび女王に接見される許しをもらいました。何もかもすべてが、突然コロンブスの願いどおりにいくようでした。
コロンブスは、探険用の船を女王から約束されました。そのとき、コロンブスの内に7年間のつもりつもったうっ積がこみあげてきて、王や女王の適当と考えていた額をはるかにこえる報酬を要求したのでした。要求のなかには、コロンブスが提督の地位に昇進されることと、新大陸からもたらされる利益の10分の1を与えられるというのがありました。
しかし、コロンブスの条件は拒否されてしまいました。コロンブスは、ただちにフランスにいる弟と合流するため出発してしまいました。ところが、コロンブスが10マイルも進まないところで、1人の伝令が追い着きました。コロンブスの要求が受け入れられたのです。
コロンブスはまた宮殿へ向けて馬を走らせました。宮殿へ戻ったコロンブスは、今までだれも挑戦したことのない、のちに偉大な功績を残す航海の準備に全力を注ぎこんだのでした。

 コロンブスはとうとう求める船を入手できる確信をもてました。しかし実際には、その船のためにスペインの王と女王がお金を出したわけではないのです。
パロス港の町は税金を滞納していましたので、王室の不満をかっていました。住民の多くが、多額の罰金を払う義務を負っていたのです。このような場合には、当時のスペインの習慣として、個人の責務ではなく、町全体に罰が加えられました。そのためにパロスの町はコロンブスに3隻の船とその乗組員を、町の費用で用意するように命令されたのでした。
パロスの町は、宮殿から遠く離れたところにありました。税金の支払いを拒否したこの町の人びとは、コロンブスに船を与えるようにという国の命令をも拒否しようとしました。コロンブスが王様の命令書を見せても、町の人びとはあざけり笑って相手にしませんでした。
港にはたくさんの船がありましたが、だれもどこ人行くのかわからないそんなとんでもない航海にふさわしい船はないというのでした。
これまであらゆる困難に打ち勝って、7年も航海できるのを待ち続けてきたコロンブスも、町の人びとの冷たい態度に希望が遠のいていくように思えました。

 希望がまったく失われたと思っていたコロンブスに、また幸運が味方しました。
パロスの町で、コロンブスはある兄弟と知り合ったのです。彼らは船長であり、もっとも重要なことに船主でもあったのでした。兄弟の名前は、マルチン・アロンソ・ピンソンとビセンテ・ヤニス・ピンソンでした。
この兄弟の手助けで、コロンブスはとうとう3隻の小さな船を手に入れることができました。一番大きな船が 「サンタ・マリア号」 で、他は 「ピンタ号」 と 「ニーナ号」 でした。この3隻が、航海史上もっとも有名になったのです。
3隻とも、とても小さな船でした。サンタ・マリア号の甲板は、およそ70フィート(21mくらい) しかありませんでした。ピンタ号はサンタ・マリア号の半分くらいの大きさしかなく、ニーナ号になるともっと小さく、18人の乗組員しか乗れない小船でした。
コロンブスは、この3隻のとても小さな船で、今までだれも行ったことがなく、そこから無事にもどってこられると思う者などほとんどいない、海図もない嵐の海へ乗りだそうと計画しているのでした。ようやくのことで船を手に入れたと思うと今度は、いっしょに出航しようと男たちを説得することが非常にむずかしいことがわかりましたが、それも当然のことでした。

 ピンソン兄弟の助力がなかったならば、コロンブスの船出は不可能だったかもしれません。ピンソン兄弟は言葉だけでなく身をもって模範を示し、いやがるパロスの船乗りたちを勇気づけたのでした。ピンソン兄弟はともに、コロンブスといっしょに西方の未知の海へ乗り出したい、と申し出たのです。
コロンブスは、スペインの刑務所の囚人の中から乗組員を募集しようとしていました。いっしょに航海する囚人は全員無罪放免になる確約を、コロンブスは王様からとっていたのです。ですが、幸いにも囚人を乗組員にする必要はありませんでした。
それにしても、3隻の船に必要な90人もの乗組員を集めるのは、簡単なことではありませんでした。当時の人びとは、スペイン人にかぎらずどこの国の人も、宗教心が強く未知の世界へ冒険に行くことは神をけがすことと考えていたのです。ある人たちは、航海の途中で巨大な海の怪物や恐ろしいうず巻きに出会うのではないかと、危険を恐れていました。
しかし、航海から帰ってくれば大金の報酬が与えられる望みと、町でもっとも信頼されているピンソン兄弟が率先して行動しましたので、人びとは恐ろしさに打ち勝って、航海に出る決心をしたのでした。

 まもなく、用意はすべて整いました。3隻の船にはそれぞれ、コロンブスや乗組員たちの1年分の食料が積みこまれました。
そのころの船員に対する手当は、1日に1ポンド(約450g) のビスケットと4パイント(約2リットル) のブドウ酒、それに3分の2ポンド(約300g) の肉でした。それ以外に、記録によると船には『玉ねぎとチーズ、油や酢など、海上生活にどうしても必要な』ものが積みこまれました。
さらに船には、帆やロープ、武装のため大砲に使う石の弾丸などが積みこまれましたので、3隻の小船は喫水線(船側と水面とが相接する線) よりもずっと下に沈んでしまったにちがいありません。
やるべきことが、もう1つ残っていました。未知の世界へ航海するには神の助けが必要でしたので、コロンブスと乗組員はパロスのすべての男女を伴って出航前に、ラ・ラビダの僧院の教会へ荘厳な行列をして、彼らの冒険に対し、神の加護を祈ったのでした。
その僧院は、コロンブスが以前、女王から伝言を受けとったところでした。そして、コロンブスたちに神の恵みを祈ってくれた修道士は、やはり以前にコロンブスのために女王へ手紙を書いてくれた、あのファン・ペレスだったのです。

 1492年8月3日金曜日の日の出30分前に、コロンブスは出航の命令を出しました。
朝日がのぼると、3隻の船は帆を張って岸壁から離れていきました。ここに、航海史上もっとも記念すべき航海がはじまったのです。
乗組員たちは船上ロープを巻いたり、シートをかけたりして忙しく働き、港に集まった群衆に心をとめるひまさえありませんでした。見送りの妻や母親たちは泣きながら神に祈り、男たちはこれで乗組員たちとは見おさめになる、と内心恐れながら船の仲間を見守りました。というのは、この航海は、港から港へと航海する普通の航海とは違っていたからです。見送り人は、まるで、わたしたちが月旅行へ出発した最初の飛行士を見送ったときと同じ気持で、サンタ・マリア号、ピンタ号、ニーナ号の乗組員たちを見送ったのでした。いえ、もっと不安だったことでしょう、なぜなら少なくとも、わたしたちは月があることを知っていました。(当時の人たちには西方に陸地があるとは考えられないことでした)
夜明けの赤い日を帆に受けて、船が未知の海から寄せてくる大波に乗ったとき、確信に満ちて幸福そうな男が1人だけおりました。それはコロンブスだったのです。とうとうコロンブスは船長となりました。もうだれも彼を止めることはできないのです。

 コロンブスは、パロスから出航すると、もうなんのめんどうもなくなったと思ったに違いありません。これがはじめてというわけではありませんが、コロンブスのこの考えはまちがっていたのでした。
初めの3日間は、すべて順調にいきました。コースは知られているうちでもっとも西方のカナリア諸島に向けられ、コロンブスはそこから航海に乗り出そうと計画していました。3隻のなかでも一番船足の速いピンタ号は、ブルーグレイの水平線に白い帆を見え隠れさせながら、先頭に立って航海していきました。
ちょうどそのときのことでした。サンタ・マリア号の甲板を歩いていたコロンブスは、突然立ち止まりました。ピンタ号に何ごとか起ったのでした。ピンタ号は、帆を巻き取って航海できずに波間に漂っているのです。
すぐに、サンタ・マリア号を横づけにして、コロンブスがピンタ号を調べると、かじの一部が流されてしまっていて修理にいくばくかの時間をかけなければならないのです。
ピンタ号のかじの災難よりも、ピンタ号のかじをこわせばパロスへ帰らなければならなくなるだろうと、乗組員のだれかが航海する勇気をなくしてわざと壊したのではないかとそちらを心配しました。

 もしだれかが故意にかじを壊したとしても、その計画はむだなことでした。コロンブスは今までにあまりにも多くの困難をのりこえてきましたので、かじを壊されたくらいで目的をあきらめたりするわけはなかったのです。
ピンタ号の修理とニーナ号の航海計画の変更で、コロンブスは1か月近くもマデイラとカナリア諸島ですごさなければなりませんでした。サンタ・マリア号の大きなメインマストの帆に赤い十字の大紋章を張り、ふたたび西方に向かって航海が始まった日は、すでに9月6日になっていました。
幸運にも、コロンブスの航海日誌が残されていて、それには航海中に起った毎日のできごとが記入されています。1週間は項調に進み、コロンブスは毎日、太陽と星を観測して、海図に自分たちの現在位置を書いたり、航海距離数を計算したりしました。
このころに、コロンブスは2冊の航海日誌を作りはじめました。そのうちの1冊には毎日の航海距離数を正確に記入し、もう1冊には乗組員に見せるための、実際距離数よりも少なくした航海距離数を記入しました。これはスペインからの長い航海距離数を知って、恐ろしくなって帰りたいと、乗組員たちに思わせないようにするためでした。

 カナリア諸島を離れてから7日目に、コロンブスは船のコンパスが不思議な動き方をしているのに気づきました。コンパスの針は、北極星を示さないで、少し北西に寄った方向を示していました。コロンブスはこのことを、乗組員のだれにも言いませんでした。しかし、コンパスの針のずれば、毎日少しずつ大きくなっていきました。
9月17日になると、コンパスの針は標準位置からだいぶんずれてしまい、かじ取りたちも気づきました。コロンブスの航海日誌によると彼らはすぐに乗組員たちもコンパスのまわりに集まり 「動揺して恐れおののいた」 とそのときの様子が記入されています。
どうしてコンパスの針が狂ったのか、乗組員たちばかりかコロンブスにもわかりませんでした。コロンブスも心配していましたが、船長として部下を安心させなければなりませんでした。そこでコロンブスは、コンパスの針が壊れたのではなくて、北極星はときどき移動するものだ、と乗組員たちを説得しました。幸いにも、乗組員たちはコロンブスの言うことを信じました。コロンブスは心配していても、絶対に顔には出しませんでした。
現在わたしたちは、コンパスの針が示す磁極は正確には真北ではなく、その方向は(磁極が)地表の場所を移動するために変化することを知っています。コロンブスはこのことを知りませんでした。

 乗組員たちは、さしあたりは落ち着きました。しかし、彼らは仲間の間では不安をかくさず、とうとう何人かが暴動を起す用意をしました。コロンブスを海へ投げ捨てて、スペインへ帰ろうというのです。
最初に陸地を発見した者には相当の報酬が与えられる約束でしたので、乗組員たちはみんな西方の陸地を探していました。そして、ある夕方、1人の乗組員が陸地が見えたと叫びました。
コロンブスは、ひざまずいて神に感謝しました。3隻の乗組員全員は神を讃える賛美歌を歌いました。みんなは一晩中夜が早く開けるのを待ちましたが、朝になると、陸地はどこにも見当たりませんでした。乗組員が陸だと思ったものは、水平線上に横たわっていた雲だったのです。
乗組員たちは、がっかりしてしまい、ますますスペインへ帰りたいと思いました。しかし、幸運にもその日、鳥が数羽飛んでいるのが見えました。コロンブスは、このような鳥は陸地から遠く飛ぶことはない、と乗組員たちに納得させたので、乗組員たちは、陸地に近づいたとふたたび勇気づきました。
海はおだやかななぎが続き、しばらくの間乗組員たちは、満足し、希望がわいてきました。

 その日は、9月25日でした。幸い乗組員たちは知るよしもありませんでしたが、陸地を見るまで、まだ18日も西方に航海しなければならなかったのです。
何か月かかっても、コロンブスは新大陸を発見するまで航海し続けるつもりでしたが、乗組員たちは、コロンブスのような信念を持ってはいませんでした。
1週間がすぎ、そしてまた1週間がすぎてゆきました。もっとたくさんの鳥が見られるようになり、そのなかには陸地近くに住んでいる鳥もいましたが、乗組員たちは、鳥が飛んでいるのは陸地がある前ぶれだとは考えられなくなっていました。乗組員たちは、長すぎる航海の不平不満を訴え船を引き返すよう、コロンブスに要求しました。コロンブスは最善を尽くして乗組員を勇気づけましたが、乗組員たちはコロンブスに従わず、暴動を起そうとしました。そんなとき、コロンブスの言葉を証明するような陸地のしるしがありました。
それは10月11日のことで、ピンタ号の乗組員が、彫刻された木片とコロンブスがローズベリーと呼ぶ実をぎっしりつけた木の枝が海上に浮いているのを見つけたのでした。これらは、鳥よりももっと陸地が近いことの証拠でした。その夜、コロンブスと乗組員たちは興奮して喜び合い、乗組員たちはコロンブスが約束してくれた富を手にする日も近いと思いはじめました。

 乗組員たちの望みはかなえられました。過去5週間もの間、コロンブスは昼夜区別なく海を見つめていましたが、その夜もいつものようにサンタ・マリア号の船尾に立って西の方を眺めていました。10時ころ、突然遠方の海上に小さく光が点滅するのが見えたのです。
星にしては低すぎました。それよりもその光は、だれかがたいまつを持っているように揺れ動いていました。
コロンブスが、同じくその光を見た1人の士官を呼びましたが、三人目が呼ばれる頃には、もうその光は消え去っていました。その光はコロンブスの錯覚だったのでしょうか、それとも海のいたずらだったのでしょうか。コロンブスにも、はっきりしませんでした。
その夜コロンブスは、ひと晩じゅう船尾にとどまっていました。もし本当に陸地があった場合のことを考えて、夜間に陸地に乗りあげたりしないように、船の帆はたたんでありました。後方の空は徐々に明るくなりはじめましたが、西の前方はいまだにまっ暗でした。乗組員たちはますます目をこらしました。乗組員の半分は索具(帆柱)の上に、半分は船べりに列を作って前方を見守りました。
しばらくすると、ニーナ号のマストにのぼっていた乗組員が 「陸地が見えたぞ!」 と叫びました。

 とうとう陸地が発見されたのです! 見わたすかぎり海だけだった何週間もの長い航海生活も、これで終りました。実際、コロンブス以外の全員は、もう二度と陸地を見ることはできないとあきらめていましたし、身の不安をかんじていたのでした。わたしたちは水平線上に緑の木を見たときの乗組員たちの喜びを想像することができます。
わたしたちは、コロンブスといっしょに航海した乗組員たちが以前陸地を離れたのは、わずか数時間かせいぜい2、3日にすぎなかったことを思いださなくてはなりません。
コロンブスは、西に向かって航海すれば、陸路ではトルコにはばまれているインドへ到着できる、と信じていました。ですからコロンブスは、発見したこの島がインドだと思っていました。現在でもこのあたりが西インド諸島と呼ばれている理由は、およそ500年前コロンブスが誤解したためなのです。
コロンブスは、正装してスペイン国旗を手に上陸しました。ピンソン兄弟や乗組員も彼とともに上陸しました。上陸するとコロンブスは、ひざまずき、うれし泣きしながら土に口づけしました。神に感謝したあと、コロンブスはスペインの王と女王の名のもとに、その島をスペインの領地として宣言しました。

 その島は、大きく平らな島で、紺ぺきの湾のまわりには森が生い茂っていました。また島じゅうには、見わたすかぎりコロンブスがまだ見たこともない色鮮やかな花が、たくさん咲いていました。5週間もの海上生活の後だっただけに、この島はコロンブスたちにとってまるで楽園のようでした。
島の原住民たちは、上陸したコロンブスたちを恐れませんでした。原住民の皮膚は、白色でも黒色でもなく、顔には奇妙な模様が塗られていました。原住民たちは、先端にサメの歯をつけたアシで作った投げ槍を持っていました。白人を見たことも、これまで西欧文化に接していないことも明白でした。コロンブスがガラス玉の首かざりを与えると、彼らはまるで新しいおもちゃをもった子どものように大喜びしました。
スペイン人は、以前アフリカ沿岸地方で原住民を見ていましたが、ここの原住民は、はじめてみる人種でした。この未知の島の男たちは、茶色の葉を巻いたものを持っていて、火をつけて口で吸い、煙を吹き出していました。それは白人がタバコと接触を持った最初でした。

 コロンブスの航海の目的の1つには、純金の山やまがあると伝えられていた、黄金の島を発見することがありました。
このサン・サルバドルの原住民のある者は、小さな黄金の飾りを身につけていました。それを見たコロンブスが、その金の出どこをたずねると、原住民は南方を指さして彼らがキューバと呼んでいる大きな島からとってきたことを示しました。コロンブスは、いかりをあげてさっそく金を探しに出発しました。
コロンブスは、そこが日本にちがいないと想像しました。3か月以上も、島から島へと航海を続け、たくさんの島に上陸して、それらをスペイン領として宣言しました。しかし、コロンブスは、日本や黄金の島は発見することができませんでした。そのうちに、コロンブスは彼の探険をすっかり破滅させてしまうような災難にあったのです。
かじ取りの不注意で、サンタ・マリア号が、コロンブスが発見してサン・ドミンゴ島と名づけた島へ乗りあげてしまったのです。サンタ・マリア号は難破してしまい、コロンブスは自分と救えるだけの貯蔵品を、ニーナ号に移さなければなりませんでした。サン・ドミンゴ島の海岸に作ったとりでに、40人ばかりの守備兵を残して、やがてコロンブスは、スペインへ向けて船出しました。

  冒険に満ちた航海を終えて、ニーナ号は8か月ぶりにパロス港に入りました。やがて港には、二度と帰ってこれないと思っていたコロンブスや船を出迎えに、たくさんの人たちが集まってきました。
コロンブスは、パロスにそう長くは滞在しませんでした。スペインの王と女王はバルセロナにいましたので、コロンブスは持ち帰った記念品を手にして、大急ぎでスペインを横断してバルセロナに向かいました。
コロンブスは、新しく発見した島の原住民が持っていた武器や飾り、オームなどの珍しい鳥や動物を持って、意気ようようとバルセロナの町へ入りました。しかし、群衆たちが一番興味深くながめたのは、コロンブスがキリスト教信者として洗礼するために連れてきた6人の原住民でした。
コロンブスは、今では時代の英雄になりました。かつて廷臣から軽蔑され無視されたスペイン王の宮殿で、コロンブスは王の右側に座を占める栄誉まで与えられたのでした。コロンブスは、スペインの提督に任命され、そのうえ、貴族の位をも授かりました。
勝利の栄冠を受けて王座の座にすわったとき、コロンブスは、彼の忍耐と決意、辛苦が、やっと報われたと感じたにちがいありません。


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