レディバードブックス100点セット
 

 

フランシス・ドレイク卿

 ちょうど400年ほど昔のある日、インディアンの案内人とエリザベス時代の船長が、パナマ地峡の尾根の頂上に苦労して登りつきました。さらによい展望を得ようと木に登ったとき、そのイングランド人はびっくりして息をはずませました。彼の背後にはカリブ海が横たわっていました。前面には青い海が暑さのなかで光っているのです。それがはじめてイングランド人の目にうつった、現在では太平洋と呼ばれている海でした。
清教徒として育てられた彼は 「全能の神に、一度その海にイングランドの船を航海させられるよう、私に命と許を与えたまえ、と願った」 と書いています。
その男がフランシス・ドレイクでした。ローリーやホーキンズ、フロービシャーやリチャード・グレンヴィル卿などの海の冒険家たちは、彼をよく知っていました。ドレイクはエリザベス時代の海の探険家のなかで、もっとも有名な者の1人だったからです。彼の父エドマンド・ドレイクは牧師でした。フランシスは1541年ごろに (正確な生年はわかっていません) プリマス港からそんなに離れていない、タヴィストックの近くの農家で生れました。
彼が15歳のとき、一家は宗教上の迫害を逃れてケント州のアップチャーチに移りました。イングランド海軍の多くの船がメッドウェイ川に停泊していました。エドマンド・ドレイクが船乗りたちの間で説教している間、フランシスと11人の兄弟たちは河口を探険しました。彼らはアップチャーチの尖塔を目印にして、ボートを操れるようになりました。その尖塔は現在でもドレイクの時代と同じように航海者の助けとなっています。

 フランシスは船乗りになろうと決心し、ケント州や北フランスやオランダの沿岸を航行してまわる、小さな商船の船長に弟子入りしました。やがて彼は、その海域の潮の干満や潮流や浅瀬を習い覚えました。船長が死んだとき、彼は若いドレイクにその船を残していきました。
ドレイクは至るところで、わくわくするような海の冒険談を聞きました。スペインはイングランドの敵国でした、そしてイングランドの船乗りたちは、南アメリカから財宝を積んでスペインの港にもどるスペイン船をひんぱんに襲撃しました。彼らはスペイン船を奪いとったり、沈めたりして、絹とか香辛料とか金銀などの高価な積荷をイングランドに持ち帰ったのです。
エリザベス女王はその海賊には目をつぶっていましたが、彼女は彼らが持ち帰った財宝、とくに彼女に捧げられた贈物をひそかに喜んでいました。
ドレイクは西へ航海したいと切望しました。彼が20歳になったとき、好機が訪れました。彼は大西洋横断に出発し、はじめてスパニッシュ・メイン (カリブ海沿岸地方) とギニアに至り、奴隷売買を見ました。正直な人だったので、奴隷制度を見て彼は気分が悪くなりました。彼は奴隷制度に加担することを拒みました。そのかわり彼はスペイン人と戦いました、もっと多くの奴隷の労働を彼らが必要としていたために、彼が非難している奴隷売買がさらに盛んになっていたからです。
1567年に、彼は親せきのホーキンズが指揮する小艦隊のなかの1隻である50トンのジュディス号の艦長になりました。サン・ジュアン・ド・ウルア港で裏切りの攻撃に会った際、ドレイクとその部下は敵より劣勢でしたが、勇敢に戦いました、しかし、2年後にプリマスにもどったのは、ジュディス号と他のもう一隻、ミニオン号だけでした。

 その夏(1569年) ドレイクはコーンウォールの女性、セント・ブドーのメアリー・ニューマンと結婚しました。かわいそうにメアリーは、結婚している13年間、夫にほとんど会うことはありませんでした。ドレイクはできるかぎり多くのスペイン船を攻撃することに専心し、彼の時間のほとんどを海上で過していたのです。
彼は有名になりつつありました、しかし、勇敢で大胆な船乗りであると同時に、ドレイクには欠点もありました。当時の作家は彼のことを 「怒りっぽく、わかりきったおべっかにもとても喜んだ」 と述べています。彼の怒りは祖国の敵スペイン人に向けられました。
次の5年間、ドレイクはできるかぎりスパニッシュ・メインに航海しました。そこで彼は注意深く敵の弱点を探り、彼らのとりでの強さ、鉄砲や砲台の数に注意を向けました。その間じゅういつも、どうやって敵を打ち破るかの方策を彼は考えていました。
1572年に彼の準備は整いました。彼はパナマ地峡のノンブル・デ・ディオスにあるスペインの港を攻撃しようと決意しました。そこにはペルーやメキシコから持ち帰った豊かな財宝が、スペインに向けて船積みされるまでの間、留め置かれていたのです。
わずか73人の部下と、彼の弟ジョンが指揮するパシャ号とスワン号の2隻の船で、ドレイクは大胆にも港のなかに船を乗り入れ上陸し、攻撃してきたスペイン人を打ち破りました。彼は部下の何人かを総督の家に連れていき、銀の延棒の山を彼らに見せました。
「私は今、君たちを世界の大財宝の前に連れてきたのだ」 と、彼は彼らに言いました。

 やがて、ドレイクは激しい戦いでひどい傷を負いました。彼は気を失い、部下は退却して彼を船に連れもどしました。彼らは銀の山よりも自分たちの指揮官の命を重視したのです。しかし、ドレイクは町を攻撃するまえに、金を積んだラバの長い一隊を捕えていました。彼は捕えたスペイン船2隻を使って、その金をイングランドに送りました。
負傷がいえると.ドレイクはふたたび航海をはじめました。彼はプエルト・リコを焼き、多くの敵船を奪いとり、パナマ地峡に到着しました。いつも探険に熱心なドレイクが、インディアンのガイドといっしょに南方の海を見ようと山に登ったのは、彼の部下が太陽のもとでぶらぶらしているときでした。今はまだ南方の海を航海するときではありませんでした。彼は部下と船と財宝を故国に運ばなければならなかったのです。
彼らは1573年8月の日曜日の 「説教の時間」 にプリマスに着きました。多くの市民はもちろん市長や市会議員も、ドレイクが帰ってきたという知らせがあったとき、教会の中にいました。町の人たちは急いで波止場まで走っていきました 「われらが船長の苦労と成功の結果として持ち帰られた、恵み深い女王と祖国に対する神の愛と祝福のあかしを見たい」 と、みんなが思ったからでした。
船倉にはなんとすばらしい財宝が積まれていたことでしょうか、ブラジル産の象牙、香味料、獣皮、材木、そして宝石をちりばめた刀、金、宝石、銀、縫製品、ベルベットなど。当然、プリマス全市が喜び、倹約な女王も喜びました。

 ドレイクは次の2年間の大部分をアイルランドの軍隊と戦って過しました、しかし、彼はつねにあの南の海について考え、どうしたらそこに航海できるかと思いをめぐらしていました。1577年、彼は大冒険に出発する用意ができました。12月13日に、彼はエリザベス号、マリーゴールド号、スワン号、クリストファー号とともにペリカン号に乗ってプリマスを出港しました。
当時の船は小さくて短く、近代の標準からみれば、ぶかっこうでした。ペリカン号は100トンで、エリザベス号はたった80トンでした。木造船でふつう樫で作られ、長さが横幅の3倍を越えることはほとんどありませんでした。造船家は2つのタイプの船をつくりました。小さいタイプの船には上部構造がありませんでした。

 大きい方の船には、前甲板と呼ばれる高く作られた船首と、ともと呼ばれる高い船尾がありました。その間にある広い場所は中部甲板と呼ばれました。船尾は海上に張り出して作られていて、船長の寝室や操船装置の室があり、その下には大きな船室がありました。船長はここで食事をし、客をもてなしました。船尾の遊歩道は彼が使うようにとってありました。
前甲板には乗組員の居室と貯蔵室がいくつかありました。上部甲板の下にはさらに多くの貯蔵室と水夫たちの居室と砲台とがありました。炊事室は船の底の方にあったので、その炊事の火が高い熱を発して、ときには貯えてあるものをだめにすることもありました。
ほとんどすべての船には、彫刻された船首像があり、鮮やかな色に塗られていました。

 エリザベス時代の戦艦には、長い砲身の大砲やカロネード砲 (短くて幅の広い大砲) やその他の砲が積まれていました。カリヴァー銃や火なわ銃(銃の典型) が弾丸や矢を発射し、長柄のほこ、やり、弓矢なども積まれていました。乗員は短刀や刀は自分で用意しましたが、かぶとや胸よろいは支給されました。
ドレイクがふたたびプリマス・ホウ(ホウは高い場所) を見るのは3年ののちでした。航海の初期に紛争が起りました。トーマス・ドーティという名の乗組員が、乗員の間に反抗を起させようとしたのです。たしかに彼のやろうとしたことはむずかしくはありませんでした、当時の水夫の状態は楽なものではなかったからです。これから先の航海は長く危険なものでした。乗組員は志願者と強制された者 (航海に出たいか出たくないかに関係なく、集められ乗船させられた人たち) とから構成されていました。フランシス・ドレイクとの航海に関しては、志願者が欠員となることはありませんでした、というのは、奪いとった船から得た金のいくぶんかが 「褒賞金」 として乗組員のふところに入るし、略奪する財宝は豊富にあったからです。
通常、食べものは量は十分でしたが、質は貧弱で、とくにビールについてそうでした。しかし、ビールがある間は、病人にやる以外、水には手がつけられませんでした。ビスケット、塩漬けの肉と魚、バター、オリーブ油、チーズがふつうの食料でした。
これらの小さな船は、私たちにはロマンティックに思われるかもしれませんが、甲板の下は暗く、換気が悪く、湿っぽくて、いやな臭いがしました。

 遠く海上にあるときは、しばしば乗組員が壊血病や発疹チフスや赤痢にかかりました。規律は厳しいものでした。厳しくなければならなかったのです、こみあった船の中では、命令に従うことが生き残る唯一の方法だったからです。
むち打ち、帆げたの末端からつるされること、手かせ足かせをはめられることが、命令に従わないことに対する一般的な罰でした。それは私たちには苛酷に思えるかもしれませんが、当時は海上生活も陸の上での生活もきびしいものだったのです。海上で生き残れるかどうかは、有能な規律正しい乗組員とりっぱな指揮官がいるかどうかにかかっていたのです。
ドレイクは人気がありましたが、未知の海への航海に成功するためには権威が必要でした。彼の小艦隊は世界の反対側の大洋に向かっていました、マゼランの艦隊のうちの1隻が世界一周をすでになしとげてはいたものの、船乗りの多くはまだ心配していました。おそらく彼らは世界のへりを越えてしまうかもしれないと思ったのでしょう。
ドレイクは主な部下を注意深く選びました。船長として彼は船の中の最高位者でした。当時の船長の誰もが船乗りだったわけではありません。なかには、金持が船長(キャプテン)になって、船の航行をもう1人の船長(マスター)またはその代理者に任せることもありました。砲手は砲とそれを発射する水夫を管理し、1等下士官がマスケット銃や弾薬の管理をしました。軍医、牧師、甲板長、舵手が水夫に命令を下す立場の人たちでした。

 これらの人びと以外に、船の出納を司り、食料を配給する事務長と、船倉を管理する補給係将校と、コックと、大工に、船に乗せてあるタルの係などがすべて必要でした。
乗組員のなかの1人を見落してはなりません。それは船尾に立って戦いに突入する前にラッパを吹くラッパ手でした。鮮やかな色の陣羽織を着、同じ布でラッパをつりさげて、彼は敵の注意をひくために 「宣戦布告の合図を吹きました」。
ドレイクの船では、誰もが働かなければなりませんでした。ドレイクはこう主張しました「私は水兵とともに働く紳士と、紳士とともに働く水兵がほしいのだ」
ドーディの反乱は失敗し、彼は処刑されました。ドレイクの船がマゼラン海峡に着くまでに、スワン号とクリストファー号はだいぶ遅れました。マゼラン海峡で、ドレイクはペリカン号をゴールデン・ハインド号と改名しました、それは、その船の装備に多額の金を出してくれたクリストファー・ハットン卿に敬意を表してのことでした。彼の紋章にはゴールデン・ハインド(金の鹿) が描かれていたのです。
彼らはすぐに船を針路からはずしてしまう強風と悪天候に16日間も苦しめられましたが、1578年9月6日に海峡を通り抜けました。マリーゴールド号は乗員全員とともに沈没しました。エリザベス号はイングランドにもどりました。
今やドレイクは、指揮官としての力量と決断が必要とされましたが、彼は臆しませんでした。彼は航海を続け、部下を引きつれて世界一周に向かうのです。

 やがて彼らはおだやかな海域に入りました。彼らは南アメリカの沿岸を航海し、ときにはスペインの植民地から財宝を奪うために、またときにはヴァルパライゾーにおけるように、スペインの店から食料をぶんどって補給するために上陸しました。多くのスペイン人をたやすく捕虜にすることができました、そのあたりの沿岸にイングランドの船があらわれたことがなかったので、彼らはゴールデン・ハインド号をスペイン船だと思ったからでした。

 乗組員たちは豊かな財宝が船倉に流れこむので苦労を忘れました。タラパカでは、ドレイクの部下は眠っているスペイン人のそばから銀の延棒をこっそり取ってきました。また別の上陸の際、8頭のラマの一隊から銀の積荷を取りあげました。
彼らはほとんど障害なく、航海を続けました。大船カカフエゴ号から、ドレイクは銀貨13箱、金80ポンド、銀26トンを奪いとりました。彼らは栄光のなかに故国に帰ることもできましたが、ドレイクには別の考えがありました。
彼らは、カラオに着き、次にサンフランシスコの沖合に到達してから、世界一周をするためには、どうしても越えなければならないとわかっていた、まだ探険されたことのない大洋を横断しようと、ドレイクはふたたび針路を西にとりました。68日間、小さなゴールデン・ハインド号は陸地を少しも見ることなく航海を続けました。ときには、ドレイクさえも心配になったにちがいありません、しかし、指導者たるものはすべて自分の恐怖をかくさなければならないのです。彼らはさらに航海を続け、ついに (ドレイクがひそかに安心したことはたしかでしょう) 彼らはインドネシアのモルッカ諸島 (ときにはスパイス群島とも呼ばれます) に到着しました。
そのとき、ゴールデン・ハインド号がさんご礁に乗りあげたのです。船を離礁させるために、丁子(ちょうじ;香料) の積荷7トンと若干の銃砲を海に捨てなければなりませんでした。

 ふたたび堅い大地をふみしめて、水夫たちがいかに喜んだか想像してみてください。今や彼らは新鮮な水を飲んだり、熟した果物を食べたり、太陽のもとでのんびりすることができました。賢明にも、ドレイクは部下に3週間の陸上休暇を与えました。彼らはターナーディ島に滞在して、船をきれいにしたり、未知の海を長期航海してきた緊張をときほぐしたり、病気をいやしたりしました。やがて、すべての用意がふたたび整うと、ドレイクはジャヴァへ向けて出航しました。
故国への、残された航海をする前に、船も修理する必要がありました。前方には、嵐が突然激しく吹き荒れるかもしれないインド洋が横たわっているのです。多くの財宝を積んでいたので、ドレイクは用心の上にも用心しました。ドレイクは剛勇のほまれ高い人でしたが、愚かな冒険はしませんでした、それが彼がたくさんの成功をおさめた理由でもあったのです。
彼は海の威力をよく知っていて、貧弱な準備ではいかなる航海にも出ませんでした。
やがて、彼らは航海を続け、喜望峰をまわってアフリカ沿岸を西に進み、ビスケー湾に入り、ついに彼らのなつかしい、3年もの長い間見ることがなかった、イギリス海峡に入りました。1580年9月26日に、ゴールデン・ハインド号は無事プリマスに着きました。
メアリー・ドレイクは市長に付き添われて、夫の船へとボートでこぎ寄せました。ドレイクは中国船から奪いとった積荷を、とくに彼女のためにとっておいてありました。それは美しい柔らかい絹や明の陶器で──たぶん、それは彼女がさびしい生活を送っていたことに対する代償だったのでしょう。彼女は子どもを産むこともなく、それから約3年後に死にました。

 プリマスでは伝染病がはやっていました、そこで、ドレイクは持ち帰った金や銀の財宝を、テームズ川のほとりにあるデットフォードに運びました。財宝のほとんどが女王の金蔵に入るので、そこは荷をおろすには手ごろな港でした。
みんなに仕事がありました。乗組員には給料が支払われ、略奪品の分け前が与えられました。積荷の分類と評価には何週間もかかりましたが、若干の財宝は、さらに多くを送るとの約束とともに、エリザベスに送られました。
春になってやっと、エリザベスは勇敢な船長がまだ彼が船に乗せている彼女への贈物を見ようと、デットフォードを訪れました。
ドレイクは、もちろん、彼女の来訪を知らされていました。彼もエリザベスも公衆の注目の的になることを好みました。ゴールデン・ハインド号は今までになくきれいにみがかれ、塗装されました。ドレイクは、宝石をちりばめたピンとレースのひだえりがついた、一番りっぱなべルベットの服を着て、金の刺しゅうをした短めのケープをはおりました。宝石をちりばめた指輪が指できらめきました。ドレイクは女王を待ちました。
大船室にはみごとな宝石が、女王にすぐ献上できるように並べられており、女王陛下のための大宴会も用意されていました。ドレイクは彼女にポートーシー産の砂金や銀塊ばかりでなく、毎年リマからカディズ港へ財宝を運ぶスペインの大船から奪いとった真珠やエメラルドやダイヤモンドを見せました。女王がドレイクの贈物を見、それを丁重に受け取ったとき、彼女は目を輝かせたにちがいありません。彼女はスペインへの誇らしい挑戦として身につけるべく、その宝石のいつくかを王冠にはめこませました。

 50万ポンドの価値のある財宝を持ち帰ったことはほうびに値することでした。はなやかな宴会が終ると、エリザベスは後甲板にあがり、ドレイク船長にひざまずくように念じました。そして彼女は剣で軽く彼の肩に触れて言いました 「お立ちなさい、フランシス・ドレイク卿」
デヴォン出身の男は今やナイトに列せられ、大英帝国でもっとも人気のある人物となりました。スペインのフィリップ王は激怒して彼の財宝の返還を要求しましたが、拒否されました。スペインの大使メンドーサは、王がエリザベスに 「事態は戦争になるかもしれないと言うと、彼女はいつもと少しも変らぬ声で静かに、もしあなたがそのように脅迫するのなら、あなたを地下牢の中に投げこみますよ、と答えた」 と、彼は王に書き送りました。
フランシス・ドレイク卿は彼の新しい紋章を、彼とともに世界一周をしてきたドラムに描かせました。みなさんはその複製をアーマダ・ウェイのプリマスで見ることができます。ドラムそれ自体はデヴォンのバックランド寺院に保存されています。
ドレイクは世界一周をした最初のイングランド船長であったばかりでなく、世界一周をした艦隊の最初の指揮官でもありました、マゼランは故国に着くまえに死んだからです。
ゴールデン・ハインド号は朽ちはじめるまでデトフォードの宮殿のそばに置かれていました。オックスフォードのボードリアン図書館の椅子とロンドンの中央法学院のテーブルは、ともにその船の材木から作られました。
もう家庭で休息する時間がありましたが、それも長くは続きませんでした。ドレイクはじっとしていられず、海上の生活をなつかしく思いました。

 数年後に、「フランシスコ・ドレイク」(スペイン人は彼をこう呼んでいました) は、ふたたび大西洋を横断しました。今度、彼は、ウォルター・ローリー卿によって創立されたヴァージニアの植民地から、100人の夢敗れた植民者を故国に連れ帰りました。植民者とともに2つの奇妙な植物、ジャガイモとタバコが持ちこまれました。この冒険にドレイクは25隻の艦隊を引き連れていき、カリブ海沿岸のスペイン人の恐怖の的となりました。
故国に帰ったドレイクは心を痛めていました。彼は、スペインの艦隊は強力で、イングランドの安全にとって脅威であることを誰よりもよく知っていたのです。スペインのフィリップ王はイングランド侵略を企てていました。エリザベスは平和を守ろうとあらゆる方策をめぐらせていましたが、ドレイク卿は敵に対して行動を起すべきだと主張しました。

 1587年、カディズ港にあえて侵入して、彼は、彼自身の言によれば 「スペイン王のあごひげを焼きこがし」 ました。スペイン人は彼らの要塞化した港の中で攻撃を受けるとは思ってもいませんでしたが、ドレイクはその港の中ですばらしく優秀な操船術を示しました。彼は港に侵入して33隻の船を沈め、スペイン人たちが立ち直らないうちに無事脱出しました。彼はこの襲撃に続いて、すばやくアソレス群島 (北大西洋上のスペイン領の群島) を攻撃しました。ここで彼は世界最大の武装商船サン・フェリペ号を、10万ポンドの価値のある積荷とともに奪いとりました。
これらの財宝はいつものようにその大部分が王室の蔵に入りましたが、タフタや絹製品やベルベットや宝石のいくぶんかがドレイク夫人に与えられたことはたしかでしょう。フランシス卿は1585年に再婚していたのです。

 今度の花嫁は、身分の低いコーンウォールの娘ではなく富裕な貴族出の女性、エリザベス・シドナムでした。ドレイクはまた、かつてリチャード・グレンヴィル卿のデヴォンシャーの屋敷であった、バックランド・アビィの大邸宅を買いました。彼は自分が生れた荒壁の農家からわずか数マイル離れたところにある、このりっぱな邸宅で優雅に暮しました。
しろめや銀の大皿、じゅうたんや敷物、彫刻を施した階段、鏡板をはめこんだ壁などが彼の家にはありました。ガラス窓を通して太陽の光が美しい陶器や家具の上にふりそそぎ、手入れの行き届いた庭園がみごとでした。ドレイクはほんとうに裕福でした。
家庭で快適に過してはいましたが、ドレイクは完全に幸福だったわけではありません。国事に当たる人びとは不安を抱いていました。女王はスペインを刺激して戦争することがないようにと思っていて、ドレイクのような男たちが強力な艦隊を作り、それを維持するべきだと進言していたにもかかわらず、彼女はお金を使うことに反対でした。
自分が 「神の敵、女王の敵がどこにいるのか探しださなければならない」 と、彼は言いました。「いくぶん沖合で、わが国の沿岸により近いところで、敵を迎え撃ちましょう。そうすれば、陛下はずっと安くつき、敵は高くつきましょう」 という彼の願いを、エリザベスはきき入れませんでした。
女王はお金を使うのがきらいなので、彼のこの計画に同意するかもしれないと彼は思ったのでした。しかし、エリザベスは行動を起そうとしませんでしたが、彼は行動を起しました。

 彼と、「女王艦隊の主計長官」 であったホーキンズは、艦隊をいつでも戦えるように準備しました。ドレイクはアーク・ロイヤル号に乗った提督エフィンガムのハワード卿とともに、リヴェンジ号の指揮をとる副提督となりました。ドレイクは持ちきれなくなって、スペインの港に停泊中のスペイン艦隊をふたたび攻撃しようと出発しました、しかし嵐に押しもどされて艦隊とともにプリマス港で待機しました。
しかし、それも長いことではありませんでした、風はスペインにとって順風になったのです。オーシャン・シー号 (当時は同じ意味の言葉を重ねる名前をつけました) のスペイン提督は、メディナ・シドニア公でした。彼は出航してイングランドに侵入し、それを征服しようと決意していました。
雨が多く、天気の定まらない夏でした。1588年7月19日金曜日に、イングランドの縦帆挺の艇長トーマス・フレミングはスペインの艦隊がサイリー諸島の沖を通るのを目撃しました、彼らはカレーにいるパーマ公の一隊と合流しようとイギリス海峡を通っていたのでした。
フレミングの伝令が届いたとき、ドレイクは木球遊びをしていました。彼はおだやかに 「ゲームを終える時間はたんまりある、それから敵を打ち負かそう」 と言ったといわれています。
彼は、風が逆風で、彼の艦隊はその後夜になってから引き潮に乗って出航しなければならないことを知っていたのです。ゲームが終わり、ドレイクは命令を出しました。
艦隊が出港したときには、すでに用意されていたのろしが丘の上から、また、教会の塔から赤々と燃えました。

 翌日は風がなく霧が深い日でした。帆に赤の十字を描いたスペインの65隻のガリオン船は、横7マイルもある三日月の陣を張って動きました。彼らの船長、ドン・ジュアン・マルティネズ・デ・レカルデ、ドン・アロンゾ・デ・レイヴァ、ドン・ベドロ・デ・ヴァルデズらは有名な人物でしたが、イングランドの軍人たちはほとんど気にしませんでした。
ガリオン船は 「たいへん堂々と建造されていて」 かなり高さがあったので、大きな城のように見えました。厚い外壁は弾丸を通さず、一方、大砲の弾丸から守たるめに大綱がマストに巻きつけられていました。

 スペインの無敵艦隊には、ガレー船、ガレアス船、武装商船、縦帆艇などが含まれていました。ラバ、馬、食料のほかに、8000人の船員、3000人の奴隷、2万9000人の兵士が乗船していました。ガレアス船はいずれも300人の奴隷が大きなかいで漕ぎました。ガレアス船にはいくつかの小塔や部屋があり、中に説教壇のある礼拝堂まであって、船というより邸宅のようでした。
イングランド船はもっとうまく建造されていて、より速く、スペイン船とはちがって兵士より船員を多く乗せていました。彼らは水や弾薬や食料を補給しに上陸するのに都合のよい場所にいました、そのため、彼らは重い荷を積んだ敵船より軽快に動くことができました。最大のイングランド船はフロビシャーが乗るトライアンフ号でした。
イングランド船の船長のなかには、オックスフォード伯ウォルター・ローリー卿や、階級が下のトーマス・ジェラルド船長、ウィリアム・ハーヴィー船長、さらに有名な船乗り、ホーキンズ、フロビシャー、そしもちろん、ドレイクがいました。

 イングランド船はどれも (イングランドの守護神) 聖ジョージの旗をかかけていました。イングランド船のわずか4隻だけが、スペイン艦隊の一番小さいガリオン船と同じくらいの大きさでしたが、大きさで欠けるところは速さと操船の容易さで補っていました。その上、乗組員は自分たちがよく知っている海で、祖国を防衛していました。ひとつひとつの砂州、岩しょう、潮の流れがスペイン艦隊にとっては障害となりましたが、イングランド人はそれらを避ける方法を知っていました。
イギリス海軍は4つの小艦隊から成り、武装商船や小さな縦帆挺や、ヤーマスのグレイス号とかサンドウィッチのロビン号とか、チチェスターのジョン号とかファウェィのフランシス号とかの、その土地の小船によって支援されていました。
「王国のすべての避難所から、船や人びとがここへ群がり集まった」 のでした。

 陸上では、上陸したスペイン人と戦おうと陸軍が待ちかまえていました。海上では、船乗りたちがそのような侵略をくいとめようと決心していました。数日間、決戦は続きました。戦いの終りごろ、ドレイクはウォールシンガム(エリザベスの国務大臣) に手紙を書きました。
「敵が南の風を受けて北へ敗走していくのを見ることほどうれしいことはありませんでした。シドニア公は、彼のオレンジの畑の中にいたいと思うでしょう」
戦いの初期に、ドン・ペドロ・デ・ヴァルデズの船ロザリオ号は、ポートランド沖で別のガリオン船と衝突してマストを失いました。ドレイクは縦帆船を送って降伏を要求しました。

 はじめのうち、ヴァルデズはイングランド人と取引しようとしました。ドレイクは彼に 「君には論議する時間はないのだ、しかし、君が降伏すれば親切に扱おう」 と言いました。
ヴァルデズは、彼を捕えたのがドレイクであると知ると、すぐ降伏しました。彼はリヴェンジ号に乗り、ドレイクの手につつましくキスして、自分は戦いのなかで戦死する決心であったが、運よく 「慈悲深いことで知られるりっぱで礼儀正しく親切な人」 に捕われたと話しました。
ヴァルデズは、おべっかが大好きなドレイクをほめたたえる話を続けました。彼はこのスペインの貴族に 「非常に名誉ある待遇を与え、彼自身のテーブルで食事させ、彼の船室に同室させた」 のです。
しかし、ドレイクは賢明でした。彼は無敵艦隊の攻略計画をできるかぎり聞きだしたのです。ヴァルデズは彼にスペイン艦隊の強さを語り、はじめはプリマスを占領しようとの計画をたてたが、小さなイングランド艦隊が勇敢にも戦いを挑んできたのにおどろいたと話しました。ドレイクはできるかぎりのことを知ると、捕虜たちを上陸させました。彼はロザリオ号からリヴェンジ号に銃砲や弾薬を移しました。ロザリオ号には5万5000ダカットの金貨も積まれていて、「水兵や乗組員は、心楽しく分けました」
ヴァルデズはイングランドで、リチャード・ドレイクの屋敷に幽閉されました、そこで彼は、3000ポンドの身代金を払って解放されるまで快適に過しました。一説によれば、彼はスペインに捕われていた囚人と交換で解放されたとも言われています。

 その夜、ドレイクの船は、艦隊に後に続けと合図する信号灯をかかげました。彼は暗やみのなかにかすかに見える5隻の船を突然追いかけましたが、商船をみつけたにすぎませんでした。彼は急いで、もとの場所にもどりましたが、つねにドレイクをねたんでいたフロビシャーは、彼のこの行為を許しませんでした。
次の5日間、イングランド人はスペイン人を猛烈に攻撃しました。ハワード卿は 「彼らは大軍で強力であったが、我々は少しずつ彼らの羽根をむしり取った」 と書いています。
非常に多くの勇敢な行動がありました。ホーキンズとフロビシャーはハワード卿の船上でナイトに列せられました。ヴィクトリー号のホーキンズは、つねに戦いのまっただ中にありました。

 フロビシャーは大胆不敵さを示し、実にうまく船を操ってトライアンフ号を救ったのでした。
7月28日の日曜日は休戦の日でした。両軍とも、プロテスタントもカソリックも、礼拝を行いました。無敵艦隊はカレー沖に停泊していました、少し離れたところに停泊していたイングランド船から数えると、124隻の船が認められました。アーク・ロイヤル号上では火をつけた船を送り出そうという計画が立てられました。ドレイクのトーマス号のような小さな船や、ロウウェストフのエリザベス号というようなもっと小さい船に、たきぎとピッチと火薬が山と積まれました。乗組員が彼らの船に火をつけてから小船に乗って逃げ出すまで、たった10分しかありませんでした。

 イングランド側のこの計画には、風、潮の干満、潮流の知識が必要でしたが、その点についてドレイクは熟知していました。このあたりはドレイクがその見習時代に、案内してくれる海図も灯火もなしに航海することを学んだ海域でした。
真夜中に合図の砲がアーク・ロイヤル号から発射されました。火船が敵艦めがけて進みました。乗組員は導火線に火をつけました。しかし、彼らは最後の1分まで無敵艦隊へかじを向けて進み続けました。
スペイン人は火船に乗っている男たちを見て、地獄から来た悪魔だと思いました。あわてふためいて、彼らは錨をあげ、沖合へと出て──グラヴリン沖に待ちかまえるドレイクの艦隊の中へまっすぐ突入しました。
朝の9時から夕方の6時まで、両軍は船ばたを接して戦いました、そしてイングランド船は1隻も敵にふみこませんでした。ドレイクの船室には、大砲が2度もあたりました。夕やみがせまり、それとともに風が吹きだして、敗北した無敵艦隊は、まず、さらに危険な場所、すなわち砂州の方へと吹きよせられました、それから風向きが変って、彼らは北のスコットランドの沿岸のあたりへと押し流されました。
イングランド艦隊は、弾薬が底をついてはいましたが、なお恐れおののくスペイン艦隊を追って北海に達しました。スペインは敗北し、イングランドの安全は保たれました。
それはイングランドの海軍にとって、長く激しい戦いでした。ドレイクはウォルシンガムに報告を走り書きして、その結びに 「今や半分眠っている、フラ・ドレイク」 と書きました。

 1年後、180隻の船とともにドレイクは、追放されたポルトガル王がふたたび王位につくのを助けようと出発しました、しかし、遠征船隊は病気におそわれて、遠征はたいして成功しませんでした。帰還したとき、ドレイクはエリザベスの宮廷には迎え入れられませんでした。
無敵艦隊を打ち破った後の8年間、彼はプリマス市民のために働きました。彼はすでに1581年にプリマスの市長になっており、1584年には、ボスネイ選出の国会議員となりました。
彼が町に贈った最大の贈物は、新鮮な水をもたらしたことでした。比較的大きな家でも水の補給は井戸や流れに頼っていました。ドレイクはミュー川とダートモア川から新鮮な水を取り入れるため、25マイル以上にわたって水路を掘らせました、それは市民のためになったばかりでなく、入港中の船が新鮮な水を供給するのにもたいへん楽になりました。
ドレイクが町に馬で乗り入れたとき、水が彼の後に続いたという伝説があります。水が町に流れこむときに、彼はちょうど劇的にタイミングを合せて、水の先に立って馬を走らせたのでしょう。
水がドレイクの後について流れたということがほんとうであろうとなかろうと、水が流れこんだとき、騎馬の行列がそれを迎えに行ったことは、たしかに事実です。夫人同伴の市長や市会議員の先をラッパ隊が進み、食べものやワインが見物人すべてに振る舞われました。
ドレイクは水車を1つ持っていましたが、今や、すべて水路の水で回る水車をさらに6つ作りました。それは多くの人に仕事を与えました。彼は市長として352ポンド16シリングの俸給を得ていました、そして徐々に、エリザベスは彼をもとのように引き立てるようになりました。

 彼はプリマス選出の国会議員となり、負傷した海軍軍人を援助したり、金銭上や地所の紛争とか、その他の問題を調停する委員会に属して働きました。ふたたび有名な公人になった今、彼はまた探険の航海に出ようと決心しました。
彼は50歳を越えていたが、まだ健康で活動的でした。スペインは新しい無敵艦隊を建造する気配を示していました。ドレイクはエリザベスに、攻撃こそ最良の方策であると説得しました。
1595年8月18日に、提督フランシス・ドレイク卿は、今度はデファイアンス号に乗って出航しました。ジョン・ホーキンズ卿は、今は老人でしたが、彼とともに司令官となりました。27隻の船がプリマスから出港したときは、ドラムが鳴り、旗が打ち振られて、市民は彼らの愛すべき提督の壮途をかっさいして見送りました。
しかし、その航海は悲しい結末となりました。ホーキンズが病気だったという事実はさておき、彼はあまりにも用心深くて、ドレイクの好みではなかったのです。2人は何をするべきか、どこへ行くべきかについて意見が一致しませんでした。
強風が吹き荒れ、思いもよらずスペイン艦隊が攻撃してきました。ホーキンズの病状は悪化しました。艦隊が西インド諸島のプエルト・リコの沖合に停泊していたとき、彼は死にました。その夜、スペイン人が再度攻撃してきました。丸い弾丸がドレイクの船室に命中し、彼がすわる椅子を粉々にこわしました。財宝を奪いとることもできず、彼はノンブレ・デ・ディオスに向けて船を進めました、しかし、そこに着かないうちに、彼は赤痢にかかったのです。彼は徐々に衰弱し、1596年1月28日に、パナマのボルト・ベロの近くで死にました。
彼の部下たちは 「ラッパの葬送曲と大砲のとどろきのなかで、彼を水葬にした」 のです。それから彼らはその悲しい知らせをエリザベスと故国の人びとに知らせるべく、急いでイングランドにもどりました。

 ドレイクに対する最後の攻撃を指揮したスペイン人は、彼の死を聞くと、彼のことを 「この世に存在したもっとも有名な人の1人であり、降伏した人びとに対しては、親切心をもって丁寧に扱い、またその名誉を重んじてくれた」 と述べました。それは敵からのすばらしい賛辞でした。
別のスペイン人はドレイクを 「中くらいの背丈で、やせているというよりはやや太めであり、陽気で注意深かった」 と述べています。彼はドレイクは 「権威をもって指揮した」 とも述べています。彼はまた 「高慢で、野心的で、評判がよく、寛大である」 と同時に 「辛らつで、無慈悲だったが残酷ではなかった」 のです。
スペイン人たちは、フランシス卿を恐れてはいましたが、明らかに彼を高く評価していました。
彼の絵は、よく手入れしたあごひげと口ひげをたくわえ、ウェーブがかかった、ほとんど巻き毛といっていいような髪をし、りっぱな服を着た敏捷そうな男として描いています。彼は丸々としていて、背丈は低く、活動的に見え、やさしい顔つきをしています。
ドレイクには子どもがいませんでしたが、彼の家──バックランド・アビィの邸宅──には、今日までずっとドレイク家の人たちが住んでいます。
そこでは、この偉大な船乗りの多くの遺品を見ることができます。彼のドラムは、イングランドに危険が迫ると鳴り出すのだ、と伝説は伝えています。へンリー・ニューボウルト卿は、「ドレイクのドラム」 と呼ばれる有名な詩を書いています。その中で彼は、いざというときにはドレイクがもどってきて、昔やったようにドラムを打ち鳴らし、「敵をイギリス海峡から追い払う」 という伝説について書いているのです。
このドラムはドレイクのもっとも大切な所有物の1つであったにちがいありません。バックランド・アビィの邸宅では、女王から贈られた贈物や、彼が世界一周した際携えていった聖書と同時に、彼の剣も見ることができます。

  プリマス・ホウには、ドレイクのりっぱなブロンズ像が立っています。そして、その像の複製がタヴィストックにあります。「ホウ」 とは高い場所の意味で、プリマス・ホウからは、ドレイクの時代と同じように、あたりの景色が一望の下に見渡せます。近くに家などない広々とした土地だったので、そのあたりには、当時風車がありました。
フランシス・ドレイク卿は、人びとにたいへん愛されていたので、彼にまつわる多くの伝説ができました。彼が木片を海に投げこむと、それはほのおを発して、彼が無敵艦隊に向けて送った火船のように燃えたと信じる人たちもいました。
しかし、ドレイクには彼の名誉を増すような伝説は必要ありませんでした。彼は、英国沿岸から十分離れた敵を攻撃するのが最高ということを示した、最初の英国海軍提督でした。彼はまた国民に、イングランド人が、スペインやポルトガルの航海者にまさるとは言えなくとも、彼らと同じくらいりっぱに世界を探険することができることを示しました。
しかし、彼が人びとに記憶されているのは、何よりも彼の大胆不敵さ、勇敢さ、さらに彼の航海術の巧みさのためでした。エリザベス時代のすべての海の探険家のなかで、彼に匹敵する人はいません、「フランキー」(大衆は彼をこう呼んでいました) は彼らの誰よりも大きな業績を残しました。
ドレイクの体は外国の海の中に横たわってはいますが、後に続く何世代もの船乗りたちを励ます実例として、彼は生き続けているのです。


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